インバルのショスタコーヴィチ第4交響曲!

ショスタコーヴィチは実演を聴かねば全く理解できないということが今日もよくわかった。
ともかく音盤を家庭用音響装置で聴いても―どれほどボリュームをいっぱいにしても、例えば第1楽章再現部後半のヴァイオリン・ソロの美しい弱音や打楽器の微かな足音、あるいは終楽章最後のハープとチェレスタで奏でられる幽玄な音楽は絶対に享受することは不可能、そう言い切っても良いと心底思った。
確かに上野の文化会館の馬鹿でかさがオーケストラの響きをある種散漫にしていたのは否めないけれど、それでも驚天動地、魑魅魍魎、肺腑を抉る大音響の「凄さ」には度肝を抜かれた。これほど恐ろしい音楽があろうか。一方で、弱音時のビロードで撫でられるかのような官能の極致の調べ。これはもう単なるシンフォニーではない。人間のあらゆる側面、感情も肉体も、男も女も、若人も老人も、下界のあらゆる部分が詰まった究極のドラマである(僕が思うに、それは決して宇宙規模のドラマではなく、あくまで地球の内でのドラマであること。ショスタコーヴィチは人間の中の人間であることがまたしても証明された)。

東京都交響楽団第730回定期演奏会Aシリーズ
2012年3月23日(金)19:00開演 東京文化会館

指揮/エリアフ・インバル
チェロ/宮田 大
コンサートマスター/矢部達哉

・チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲イ長調作品33
休憩
・ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43

さすがに拍手のフライングはなかったものの、「もう少し余韻に浸ろうよ・・・」と思わせる最後。なぜにそんなに慌てて「ブラヴォー!」と叫びたいのか・・・。確かに指揮者の指揮棒は下がったけれど、あとちょっと、10秒とか、15秒とか・・・(笑)。困ったものである。それと何だか妙に気になったのは僕の左後ろの席の輩。ほとんどずっと居眠り状態、それもかすかに寝息(時にいびき)を響かせながら。(厳密にはその微かないびきに反応してイライラしている僕の隣の人が余計に気になったんだが)
よほど注意しようとも思ったが、まぁよい、すべては自然の音。完全なる静寂というのはやっぱり不可能なわけだから、そういうハプニングも含めてやっぱりコンサートだなと納得した次第。
嗚呼、しかし、素晴らしかった。エリアフ・インバルの芸の境地はいよいよ神懸ってきたか・・・。こうなると彼が指揮をするコンサートのどの回も見逃せない。
ちなみに、「ロココ」の方。決してよくなかったわけじゃないけれど、すっかり吹き飛んでしまって記憶にない。(例によってポピュラーなフィッツェンハーゲン版)


15 COMMENTS

雅之

おはようございます。

インバル&都響によるショスタコの第4交響曲、良かったですか!!

第4交響曲は傑作中の傑作ですよね。

私の、この曲での実演を聴いた経験に照らし合わせて、今回のブログ本文内容には100パーセント共感しました。

>僕が思うに、それは決して宇宙規模のドラマではなく、あくまで地球の内でのドラマであること。ショスタコーヴィチは人間の中の人間であることがまたしても証明された

ショスタコが神を信じていようが信じていまいが彼の音楽にはあまり関係ない、というのが私の見方です。言い換えれば、彼が神を信じていても、彼の興味はあくまでも現世にあったということですね。
ですから私は、彼の音楽表現が発する揺るぎない自信の奥底に、宗教よりも、例えば、むしろ来世に現実逃避しない「永劫回帰」「超人」を感じてしまうのです。

それは、実存主義とか超現実主義
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/102-20bunka2.html
という大きな括りの中にある芸術だったかもしれませんが、ショスタコに限って言えば、キリスト教の神のほうにあまり眼差しを向けなかった(向けることが許されなかった)からこそ、ミューズの女神たちはキリスト教の神に嫉妬せず、彼の斬新な創作活動のために全面的に味方してくれたのかもしれません(笑)。

ストラヴィンスキー、プロコフィエフとか、ラヴェルにも似たようなことが言えるのでしょうが、ショスタコの眼差しのほうが、より人間のほうを深く見据えていたのではないでしょうか。
であるからこそ彼の音楽は、醜い部分も多々ある浮き世を逃げず恐れず全力で生き抜くために、多大な勇気を与えてくれるのでしょう。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
ショスタコーヴィチは絶対に実演に触れないとだめだと実感しました。
本当に第4交響曲は大傑作だと思います。

>彼の興味はあくまでも現世にあったということですね。

大粛清の時代だからこそ内面に起こり得た葛藤あってこその芸術だと思います。
内なる声をそのまま表出する部分と、外に迎合して表現される部分のせめぎ合いといいますか。
神を信じたくても、現世にどっぷりと浸って目を向けざるを得なかったことが功を奏しているとも言えます。
確かにショスタコこそニーチェの体現者といえるかもしれませんね。

>キリスト教の神のほうにあまり眼差しを向けなかった(向けることが許されなかった)からこそ、ミューズの女神たちはキリスト教の神に嫉妬せず、彼の斬新な創作活動のために全面的に味方してくれたのかも

なるほど、うまいことおっしゃいますね。さすがです。
ストラヴィンスキーはショスタコよりだいぶ年長ですからソビエトのあの空気は正面から被っていないですよね。プロコは一旦亡命してますし(彼が亡命せず、そのままソ連に残留していたらもっと違った音楽地図になっていたかもですね)。ラヴェルはちょっと違うように僕には思えますが。

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雅之

>ラヴェルはちょっと違うように僕には思えますが。

それで思い出したんですが、ネット上でとても勉強になるサイトを見つけまして・・・・。

「吉之助の音楽ノート」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/kichinosuke1.htm
という素晴らしく勉強になるサイトより、ボレロについて書かれた文章の後半部分から引用します。

・・・・・・ラヴェル自身が構想していたものはこれとはちょっと違っていて、舞台はアンダルシアの工場、工場から外へ工員たちが踊りに加わっていき、そこに闘牛士が現われ・ひとりの娘と愛を交わしますが、彼に嫉妬する男に刺されて死ぬという筋立てであったそうです。ビゼーの「カルメン」を連想させるような愛と破綻の物語です。これを見ますと、まず工場という機械的な・殺風景な非人間的環境、そこで展開する愛憎のドラマ・そして 破綻ということです。・・・・・・

だとすると、ショスタコの第5交響曲に続いて、第7交響曲についても、「カルメン」との関係を追究する必要性が生じてくるのでは?と感じた次第です。

それと、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%EF%BC%9A%E6%AD%8C%E5%8A%87%E3%80%8A%E3%83%A0%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E9%83%A1%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%99%E3%82%B9%E5%A4%AB%E4%BA%BA%E3%80%8B%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A92006-DVD-%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%8C%87%E6%8F%AE/dp/B00660ORU2/ref=sr_1_1?s=dvd&ie=UTF8&qid=1332636604&sr=1-1
の「カルメン」との関係も、気になるところです。

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。
興味深いサイトのご紹介ありがとうございます。
ショスタコーヴィチが「カルメン」に対して相当のシンパシーを持っていたであろうことは理解できますが、そうすると「ボレロ」に関するラヴェルの最初の構想についても知っていたということなんですかね?

ちなみに、ラヴェルの構想についての出典ってご存知ですか?
ウィキペディアのあらすじくらいでしか僕は読んだ記憶がないのですが・・・。
(忘れているだけかもしれませんが)

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雅之

スコアの何版かの解説にも書いてあった気がしますが、手元にある手っ取り早いところからの引用では、

・・・・・・バレエとしての初演時にルビンステインが踊った舞台は、広いホールでひとりの女性が踊り続けるうちに、次第に周囲の人々をひきつけ、やがて大きな群舞へと発展するというものだった。ラヴェル自身はこれとは異なる演出を構想していた。舞台はアンダルシアの工場で、工場から戸外へと出てきた工員たちが次々に踊りに加わっていく。やがて闘牛士が現れ、ひとりの娘と愛を交わすが、彼に嫉妬する男によって刺され、命を落とす。ビゼーの《カルメン》を連想させるこの演出は、作曲者の死後、パリ・オペラ座での上演に採用されたことがある。・・・・・・《ONTOMO MOOK 究極のオーケストラ超名曲 徹底解剖66》 176ページ(レコード芸術2005年7月号)相場ひろ氏による「ラヴェル:ボレロ」解説より

http://www.amazon.co.jp/ONTOMO-MOOK-%E7%A9%B6%E6%A5%B5%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E8%B6%85%E5%90%8D%E6%9B%B2-%E5%BE%B9%E5%BA%95%E8%A7%A3%E5%89%9666-%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E8%8A%B8%E8%A1%93/dp/4276961947/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1332665573&sr=1-1

あとは、いつのパリ・オペラ座での上演かとか、ご自分でも調査してみてください。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
ご丁寧なご回答ありがとうございます。
なるほど、確かに「レコ芸」にあったかもですね。
このあたり、少しいろいろ調べてみたいと思います。

返信する
雅之

オイレンブルクスコア ラヴェル ボレロ (オイレンブルク・スコア) 全音楽譜出版社
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%82%A2-%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB-%E3%83%9C%E3%83%AC%E3%83%AD-%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%82%A2-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4118941236/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1332674885&sr=1-1
アルビ・オレンシュタインによる解説7ページ(訳:遠藤菜穂美)より

・・・・・注9: 1932年、ラヴェルはイギリスの記者に語った。「私は工場を点検し、たくさんの機械が動いているのを見るのが好きです。それは畏敬の念を呼び起こす、すばらしいことなのです。《ボレロ》の作曲を鼓舞したのは工場でした。この曲がいつも大きな工場を背景に演奏されたらと思います。(Orenstein,A Ravel Reader,P.490)」そういう形での最初の上演は、1941年(ラヴェルの没後4年後)にパリ・オペラ座で行われた。振付セルジュ・リファール、舞台装置と衣装レオン・レリッツ、指揮ルイ・フレスティエであった。・・・・・・

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岡本 浩和

>雅之様

>《ボレロ》の作曲を鼓舞したのは工場でした。この曲がいつも大きな工場を背景に演奏されたらと思います。

ありがとうございます。
いや、しかし、この言葉で「ボレロ」の印象が少し変わりました。

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雅之

ウィキペディア 「交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)」 の項より

・・・・・・作曲 レニングラード包囲前の1941年8月頃から作曲が開始され、12月17日に完成。ただし、第1楽章はもっと前から出来上がっていたとする証言もある。・・・・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC7%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

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岡本 浩和

>雅之様

ことによると第5と第7は「カルメン」を軸にした双生児なのかもしれませんね。
音楽的なつくりは、そっくりですから。フィナーレのコーダも。

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雅之

・・・・・・そういう形での最初の上演は、1941年(ラヴェルの没後4年後)にパリ・オペラ座で行われた。振付セルジュ・リファール・・・・・・から、

「セルジュ・リファール」ウィキペディアより

・・・・・・ウクライナ出身。「舞の神」と呼ばれた。
セルジュ・リファールは1905年4月2日にロシア帝国のキエフに生まれた。リファール家はカーニウ町のウクライナ・コサック出身であった。

伝説の舞踏家ヴァーツラフ・ニジンスキーの妹ブロニスラヴァ・ニジンスカに学び、1923年にバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)に入団、主宰者のセルゲイ・ディアギレフの信頼を得て]末期の同バレエ団を支えた。1929年7月、ディアギレフの死をボリス・コフノ、ミシア・セール、ココ・シャネルとともに看取る。バレエ・リュスの解散後にパリ・オペラ座バレエ団の首席ダンサーや舞台監督に選ばれた。・・・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AB

ショスタコはセルジュ・リファールの動向に、大なり小なり関心があったはず。1941年の第7交響曲作曲に、同年の「ボレロ」パリ・オペラ座上演が何らかの影響を与えていたかもしれませんね。

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雅之

>音楽的なつくりは、そっくりですから。フィナーレのコーダも。

それも確かにおっしゃるとおりですね。

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岡本 浩和

>雅之様

>1941年の第7交響曲作曲に、同年の「ボレロ」パリ・オペラ座上演が何らかの影響を与えていたかもしれませんね。

なるほど!!
勉強になりました。
ありがとうございます。

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岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] 破壊による遠心力と集中による求心力。 死に物狂いでのたうち回る、魑魅魍魎の楽想が跋扈し、また時に夜の静寂を謳歌し、音楽は僕たちの心魂に爪を立てたかと思いきや同時に撫でるように癒す。 一筋縄では解けない、世界のあらゆるイディオムを多用しての作品は、いわゆる集合無意識の内奥で後世の音楽家たちにどれほどの影響を及ぼした(また及ぼす)ことだろう。 第1楽章アレグレット・ポーコ・モデラート―プレストの、激しく変化する楽想を見事にとらえ、とてつもなく複雑で長い音楽を十分にソフィスティケートされた形で世に問うたのはルドルフ・バルシャイの力量。 幾度か触れた実演よりも、あるいはこれまで耳にしたいくつもの音盤よりも遥かにわかりやすく音楽が運ばれる。ドミトリー・ショスタコーヴィチが認めた真意を僕はようやくつかんだように思った。 […]

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