パンドラの箱?!

mozart_gould_11.jpgいつぞやブログに、グールドが演奏するモーツァルトのソナタ集を初めて聴いたとき、テンポが異常に速かったり、逆に遅かったり、あるいはまるでおもちゃの鍵盤で遊ぶかのようなスタッカートの効き過ぎた弾き方に抵抗を覚え、亡くなった直後の追悼盤として発売されたLPのボックスセットであったにもかかわらず、以降二度と聴くことなく棚の奥にしまってしまっていたことは書いた。聴かないのなら中古レコード屋に売り飛ばすか、好事家に差し上げたりするなどすればいいのに、なぜか手放す気にもなれず、ずーっとラックの最下段に鎮座させたまま放置してあった。もう20年以上も・・・。

しばらくアナログ・レコードを聴く装置を持っていなかったので(プレーヤーはあったが、Phonoイコライザーがなく聴くことができなかった)何年もLPは聴いていなかったが、つい先日譲っていただいたオーディオ装置ではアナログを最高の音質で聴くことができ、その音の良さに惚れ惚れするあまり、ついに前述のグールドのモーツァルトを聴いてみようと中から1枚を取り出し、そのA面だけを聴いてみた。何だか「パンドラの箱」を開けるかのような心境(笑)。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331&第15番ハ長調K.545
グレン・グールド(ピアノ)

機械仕掛けの鍵盤おもちゃで奏されているかのような音色。音はぽつぽつと途切れ、テンポの指定が速いところは遅く弾き、逆に遅いところはやたらに速弾きの天邪鬼的パフォーマンス。昔は、モーツァルトへの冒涜だと一蹴してしまったが、何だか今日聴いた限りでは、決して無意味で不要な演奏ではないんじゃないかと思わせられる瞬間が多々あった。
決められた枠をはみ出すことで、魂の喜ぶ姿が目の当たりにできるような心地よさが拡がる。人は誰でも自由になりたいと願う。しかし、自由になるということはそこに責任が生ずる。責任は取りたくないが自由になりたいと考えるのは虫が良すぎるというもの。グールドはまさにやりたい放題自由にやりながらも責任を取る勇気と自信を持っていた(少なくともピアノ演奏に関する限り自信は大いにあったと思う)。その演奏が一般的に受け容れられようが受け容れられまいが、普遍的なものになろうがなるまいが、そんなことは関係ない。使い古された表現だが、そういう解釈もありだということを身をもって体現してくれたところがグールドの天才なのである。

人への思いやりとかホスピタリティーの大切さは、どこの世界でもよくいわれること。言葉で言うのは簡単。しかし、実際に行うとなるとこれがなかなか。当たり前のことが当たり前にできないことがいかに多いことか。ささいなことでも気遣っていただいていることが伝わった時はとても気持ち良い。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
たぶんモーツァルトの時代の演奏は、今よりもっと自由にやっていたと思います。古典芸能ではなかったので・・・。テンポも、装飾音符も、その日の聴衆、演奏する場所、楽器(地域によってピッチもさまざま)、天気などに応じて臨機応変に・・・。もの凄いテンポの緩急、即興名人芸等のパフォーマンス・・・。でも、そこには日々聴衆(当然権力者が多い)に喜んでもらわなければならないという厳しい現実があったのでしょうね。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>たぶんモーツァルトの時代の演奏は、今よりもっと自由にやっていたと思います。
そうですよね。即興演奏は厳しい現実を相手にしてのまさにホスピタリティの極致だったのかもしれませんね。

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