世界にドイツ音楽を認めさせることにおいて、若い世代の中でパウル・ヒンデミット以上に多くの仕事をした者は誰もいないことはたしかです。なおそのうえ今日はもちろん、ヒンデミットの作品が未来に対していかなる意味を持つか、ということも見逃すわけにはゆきません。しかし今ここで論争になっているのは、そういうこととは全然別な問題です。むしろここでは特に「ヒンデミットの場合」という問題と、原理的な彼の性格から見た一般の問題がからみ合っているのです。なお一歩進んで言わせていただければ、我々は真に創造的な作曲家における今世界を支配している言語に絶した貧困という事実に直面して、ヒンデミットのようなすぐれた音楽家をそう右から左へ簡単に手放してしまうことは、たやすくはできかねる、ということを、はっきりしておきたいと思うのです。
(フルトヴェングラー著・芳賀檀訳「音と言葉」)
ごくたまに大道芸的な、いわゆるちんどん屋的な音楽にしか聴こえない(笑)パウル・ヒンデミットの作品を聴きたくなる。真夏の暑い盛りから少し時間を経て、夕刻からほんのりと涼しげになる今の時期の黄昏時(あるいは夜更け)にぴったりだと僕には感じられる音楽。
そういえば、昔フルトヴェングラーにのめり込み始めの頃、文献にやたらとヒンデミットの名を見かけ、いくつか作品を耳にしたもののまったく理解できなかった。というより、好みでなかった。当時はやっぱりロマン派的な感情移入の激しいわかりやすい音楽が趣味だったゆえ、ヒンデミットに限らず20世紀の音楽のほとんどは受け付けなかったのだけれど。
久しぶりにフルトヴェングラーの「音と言葉」所収の『ヒンデミットの場合』という論文をひもといてみた。1934年11月25日、「ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥンク」誌に発表されたフルトヴェングラーのナチスに対するヒンデミット擁護の有名な投稿である。なるほど、ナチス台頭に対して巨匠指揮者の主張はまったくもって正論であり、今の時代の第三者ならば即刻認められたものであることがよくわかる。
1935年に生み出された(ベルクのヴァイオリン協奏曲もガーシュウィンの「ポーギーとベス」も同じ年の作品)ヴィオラのための協奏曲。世界の音楽界では本当にいろいろな「革新」が起こっていたのだと痛感。自身も並はずれた奏者だったヒンデミットの、様々な作曲家の「モード」を借りた傑作が収録された協奏曲をメインに置いたこの音盤の価値は高い。全編通じてどこからどこまでも「ヒンデミットならではの音楽」に満ち満ちる。
「白鳥を焼く男」第1楽章「山と深い谷の間で」には気のせいかショスタコーヴィチ風の音楽が木魂する(僕にはそれが第5交響曲のような雰囲気に思えてならないが、「白鳥・・・」からまだ2年後の作品ゆえそれはあり得ない。しかし、作曲家が体制に反発する際に、似たような感情・感覚を持ち、それが反映しどこか似たような音楽の波動を作らせるのかもしれない)。ちなみに第5室内音楽の第1楽章冒頭の滑稽さはショスタコ的アイロニーに映る(これはまぁ偶然の一致なんだろう。というよりショスタコーヴィチとヒンデミットの志向はある面で似ている)。第2楽章「菩提樹よ生い茂れ」にはマーラーからの影響・・・。そしてタイトルの由縁にもなった第3楽章「『白鳥を焼く男』による変奏曲」の狂乱。ほとんどパラドキシカルにしか思えないが、これこそがナチスに対しての作曲家の答だったのだろう。
今宵、四半世紀の時を超え旧友たちと酒を酌み交わす。ヒンデミットは高尚なるキャバレー・ミュージックなり。