ストーカー的シューベルト

もう長いこと大阪フィルの演奏に触れていないが、朝比奈先生が存命当時はほとんど追っかけのように来京の折はほぼすべてのコンサートに足を運んでいた(1983年が最初だが、88年以降は8割以上のコンサート)。特に、毎年夏に催される東京定期は気合いの入れ方が半端でなく、毎回最高の名演奏が繰り広げられたゆえ本当に楽しみにしていた。先生の誕生月である7月の開催ということもあり、盛夏の暑さと、ホールを埋め尽くす聴衆の熱さと、そして世界が誇る長老指揮者を崇敬する朝比奈信者の篤さと、様々な「あつさ」が錯綜し、朝比奈ファンにとっての一大イベントだった。

1999年のプログラムはシューベルトの「未完成」と「ザ・グレイト」。
その数年前、ちょうど阪神大震災の直後に池袋の芸術劇場で都響を相手に披露された同じシューベルト・プログラムは鎮魂と希望とに溢れた画期的名演奏だったことが記憶に新しく、当時は東京ではもう滅多に3大B(ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー)以外は演られなかった朝比奈御大の、久しぶりのシューベルトが聴けるとあってとても待ち遠しく、期待に胸を膨らませ、会場であるサントリーホールに向かったことを昨日のことのように思い出す。

ところが、その日の演奏そのものについては実はあまり記憶に残っていない。95年の鮮烈な演奏ははっきりと憶えているのに・・・。もちろん当時の背景や演奏そのものの質や、いろいろと事情はある。特に音楽の場合、その頃の体験や風景との結びつきが密接だから、あの年にあった未曾有の大震災のこととかその直後のオウム真理教事件のこととかがリンクして鮮明に脳裏に残っているということもあろうし。
ひとつ思い出した。1999年頃は、シューベルトのどうにも反復されるしつこさに少々辟易していた時で、例えば「ザ・グレイト」の第2楽章以下はいつ終わるんだろうと思われるほどの長さを感じ、特にフィナーレに関しては余程起伏に富んだ名演奏でない限り途中で聴くのを止めていた、そんな時だったかも。
それでも、朝比奈ファンであった僕はその日の公演を収録した映像はもちろんリリース直後に手に入れている。ただし、当然何度も繰り返し観ることはなかった。そのDVDを久しぶりに取り出した。

シューベルト:
・交響曲第8番ロ短調D759「未完成」
・交響曲第9番ハ長調D944「ザ・グレイト」
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1999.7.18Live)

実に10年以上観ていなかったこの映像によって気づかされることは多い。大阪フィルのアンサンブルは決して上手いとは言えない。縦の線も揃わないことしきり。それでもインテンポで重心の低いかの朝比奈流が健在で、ドイツ古典音楽の規範としての価値は十分に高く、これはこれで興味深い、そして感動的な演奏だったんだと再確認した(それでもフィナーレのしつこさはつらい・・・笑)。

前にも書いたかもしれないが、シューベルトの「しつこさ」は永遠であり、普遍的なのだ。彼の場合、31年という短い人生の中で表現したかったことが多すぎた。それらひとつひとつを形にするのに、とにかく楽想が湯水のように溢れ出る。と同時に、「わかってもらおう」と何度も反復する。しかしながら、それがシューベルトの性質なのである。そのことは「冬の旅」を聴いても「水車屋の娘」を聴いても同様。自分勝手で、妄想癖で、それでいて自信が無くて引っ込み思案で・・・。ただし、一たび惚れ込んだら相手が嫌がるほど徹底的に、そしてねちっこく・・・。そう、ストーカーなのだ(心変わりが激しく、気になる別の楽想が浮かべば今書いている作品もとっとと願い下げにするところなどもいかにも病的)。そのことを理解して聴くと、シューベルトの音楽のすべてが腑に落ちる。


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