フェリアーの「亡き子をしのぶ歌」

高校生の頃、マーラーに嵌った。
1980年当時はまだまだディスクの数も今ほど多くはなかった。全集もバーンスタインをはじめとしてショルティとクーベリックくらいではなかったか・・・。
仲間内では専らブルーノ・ワルターだった。残念ながらワルターは全集を録音していない。ステレオ録音も限られており、当時流行していたソニーの初代ウォークマンで仲間とともに聴いては喧々諤々とやり合った(何と初代ウォークマンはヘッドホンのジャックが2つあって、2人で聴くことができた)。
どうしてこんなことを思い出したのか。理由はわからないけれど、突然思い出した。
20代も後半になるとマーラーの熱は一気に冷めた気がする。いや、この言い方は違う。一時期、ある特定の楽曲には随分入れ込んだ記憶があるけれど、彼の作品すべてをのめり込むように聴き込んだ時期は一度もなかったのでは・・・。

マーラーの作品は時に支離滅裂だといわれる。聖と俗とが入り乱れ、崇高な音楽に身を寄せていると突然下品な(?)旋律が顔を出す。あるいはその逆も。僕自身、決してロジカルな脳みそを持っていたわけではないけれど、どうにもそのあたりが理解できなかった。気持ち悪かった。
それでも、ある瞬間に聴かれる「神がかった」音を求めて気が向いたときには触れてはいたっけ・・・。

今の年齢になって聴くマーラーの音楽は新鮮だ。
かつて聴き取れなかった「もの」が脳天を貫く、そして身体の奥底にまで染み渡る。
厭世的だと一般に言われるマーラーの音楽こそ実に希望に満ちているんだということに気がついたのはつい最近のこと(独断と偏見に依りますが)。それまで僕は彼の音楽に死や不安というネガティブなものを想起していた。でも、第9交響曲のフィナーレの最後のあの天国的な響きをもう一度じっくり聴いてみると、ここには「万物の静けさ」と魂だけになることへのある種「希望」しか聴こえぬではないか。昨日聴いた「少年の魔法の角笛」についてもそう。あるのは「愉悦」と「夢」と。

「亡き子をしのぶ歌」を聴いた。キャスリーン・フェリアーのあの絶唱による録音で。

マーラー:
・「亡き子をしのぶ歌」(1949録音)
・「私はこの世に忘れられ」~リュッケルトの詩による5つの歌曲(1936.5.24録音)
・アダージェット~交響曲第5番嬰ハ短調(1938.1.15録音)
ヨハン・シュトラウスⅡ:皇帝円舞曲作品437(1937.10.18録音)
キャスリーン・フェリアー(アルト)
ケルスティン・トルボルク(アルト)
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

独裁的で自己中心的な人に限って不安の塊だというが、多分マーラー本人は死の恐怖に怯えながらも、一方でそう簡単には死なないと信じていたのでは?それは、似非の、自らに言い聞かせた希望だろうけれど。そんなことを思った。
それにしてもフェリアーの声質は不気味だ(僕のイメージは能面)。この作品にぴったり。30数年前のあの日、初めて彼女の歌を耳にした時、怖かった。かつてはLPレコードだったけれど、あの時のカップリングもこんなだったろうか?
第1曲「晴れやかに陽はのぼる」
第2曲「今私にはよくわかるのだ」
第3曲「おまえの母さんが」
第4曲「子どもたちはちょっと出かけただけだ」
第5曲「こんな嵐の日には」

それと、僕の記憶にあるのは、ワルター&ウィーン・フィルの、メンゲルベルクの粘着質のとはまた違って意外にあっさりしたアダージェット(あっさりしているんだけれど、実に味の濃い)。いや、美しい・・・。
さらに、引き摺られるように最後の音が消えゆくと、突然「皇帝円舞曲」!!(笑)
この曲順がまったく堪らない(笑)。最高!!である。
ワルター&ウィーン・フィル万歳!!
※今日の記事は何とまた支離滅裂なんだろう・・・。マーラーに倣って・・・(苦笑)。


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