
カール・ベームが指揮したリヒャルト・シュトラウスの交響詩「死と変容」が素晴らしい。
この生気は、壮年期のベームの真骨頂だと思う。
シュトラウスに学んだシェーンベルクは幸運だった。
シェーンベルクは、当初、R.シュトラウスの勧めに従って《ペレアスとメリザンド》のオペラ化を考えたが、じきにその計画を破棄し、交響詩として完成することを目指す。
~石田一志著「シェーンベルクの旅路」(春秋社)P65
後期浪漫の影響下にあった頃のシェーンベルクの美しさ。
そこには愛と死の退廃美が見事に横たわる。
個人的に、オペラならドビュッシーで十分だったと思う(あれ以上の方法はないように思うから)。注目すべきは、後年の本人の回想による、後悔はあっても学びの方が多く、あれで良かったのだという言葉。シェーンベルクにとっては交響詩という形式がぴったりだった。
私は最初の計画を遂行しなかったことを未だに後悔しています。おそらくそれはドビュッシーのものとは違うものになっていたでしょう。この詩の素晴らしい香りを逃してしまったかもしれないが、私なら自分の主役たちにもっと歌わせることができたでしょう。
しかし、一方では、これが交響詩であることが私の助けになりました。つまり、いろいろな気分やさまざまな性格を厳格な音楽的単位のなかで表現する術を私に教えてくれたのです。この技法は、オペラではこれほどうまくはいかなかったに違いありません。
(1950年2月17日、キャピトル・レコード序文)
~同上書P66
(もちろん十二音音楽以前のシェーンベルクが書いたオペラ「ペレアスとメリザンド」には大いに興味はあるが)交響詩「ペレアスとメリザンド」は、それこそ「いろいろな気分、様々な性格を音で描く」傑作に仕上がっていることが何より。そして、その音楽的素描を、ドビュッシーら印象派の方法とは違った形で成し遂げている点が素晴らしいのである。
ベームはそのことがわかっていた。
『マレーヌ姫』と並ぶ、彼(モーリス・メーテルランク)のこの時期の代表作として知られるのがいうまでもなく『ペレアスとメリザンド』である。この戯曲によって、『マレーヌ姫』のオペラ化を果たせなかったドビュッシーがフランス・オペラの不朽の名作を作曲したこと、またこの時期を接して、フォーレ、シェーンベルク、シベリウスがそれぞれに独自性を発揮した傑作をものしたことはよく知られている。
ドビュッシーのオペラ《ペレアスとメリザンド》のパリ初演は1902年4月30日のことである。シェーンベルクの最初のスケッチは1902年7月4日の日付があり、翌03年2月に作曲は完成した。
~同上書P65-66
ブーレーズ指揮シカゴ響のシェーンベルク「ペレアスとメリザンド」ほか(1991録音)を聴いて思ふ 「浄められた夜」の方法を一層推し進めたシェーンベルクの傑作。
(リヒャルト・シュトラウスの交響詩に負けず劣らずの素晴らしさ)
いずれも楽友協会大ホールでのライヴ録音。
(CDのデータにはそう記載されているが、「死と変容」はコンツェルトハウスなのでおそらく記載ミスだろう)
ウィーン・フィルとの演奏をこよなく愛したベームらしい、熱い演奏が繰り広げられる。記録によると、シェーンベルクのウィーン・フィルとの演奏は生涯でたった一度きり、この時限りだったらしい。
ただし、演奏はライヴのベームらしい、力の入ったもの。
音の塊が聴衆をぶちのめすような威力と、聴衆の内なる官能の静けさを喚起する、ベームならではの名演奏だと僕は思う。
(まさにそれは退廃美だろう)
メリザンドは、どこから来たのだろう。一の幕二の場で、猪を追ううちに森に迷い入ったゴローに見つけられる彼女は、そのとき泉のそばで泣いている。もしも猪が鹿であったとすれば、メリザンドは鹿の化身として立ちあらわれたと解せぬことはないような遭遇である。のちに聖者となるユベール、あるいはエウスタキウスは、手傷を負わせた鹿を追跡するうちに、角のあいだに十字架を抱く鹿に出会い、それ以後、殺生を断った。神性をおびたこの野獣には、人のこころをゆさぶる優しい魂がひそんでいたのであろう。猪に代って出現するメリザンドには、ゴローを殺生から引き離すという霊力は認めがたいばかりでなく、メリザンドによってゴローはいよいよ残忍の度を強める。狩猟はゴローの愉悦であることをやめない。
彼女は猪の化身でも、鹿の化身でもなく、水の化身、水の女神なのだ。ゴローはメリザンドの捉えがたい水性に苛立ち、狩猟にいよいよ熱中し、やがて流水に鞭を当てる狂人となるだろう。そしてペレアスは、水の女神とのまぐわいの濃密な予兆のさなかに殺され、かつては聖なる力をそなえていた泉の底に沈んでしまう。水の女神に仕え且つ仕えられる若子としてのペレアスのうつし身は、いけにえとして水の女神の源泉に供えられた。
~メーテルランク作/杉本秀太郎訳「対訳ペレアスとメリザンド」(岩波文庫)P212
いかにも西洋的な物語である。
水の化身は、本来は、東洋思想的な意味での「水の妙徳」に通じるもの、すなわち無為自然の極致だと思うが、霊力は猪や鹿以下だとしている点が何だかもったいない。
シェーンベルクは計算の人だったが、ベームもかなり計算の人だったようだ。
