
すでにベートーヴェンの場合に関して、私は、音楽演奏に対する要求そのものに変化が生じていることを指摘した。現代の演奏は、いちじるしく自由と素朴さを喪失した。それは細部に至るまで意識的なものとなり、個々の作品に適用されるが、往々にして作品そのものとはまるで無関係な模範や方式によって支配される。
~フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音と言葉」(白水社)P275
「自由と素朴さ」。
なるほど、フルトヴェングラー芸術に求めたのはそれらだった。
フルトヴェングラーの創造するベートーヴェンには確かにそれらがあった
フルトヴェングラーが最後の年に書き上げた論文「偉大さはすべて単純である」を読むにつけ、20世紀の半ば過ぎに芸術(音楽およびその再現行為)がすでに堕落の危機に直面しており、それは、科学万能主義の下、人々が信仰を失ったからだと問題提起していることが興味深い。
たとえば中世の思考をひたすら支配していた有機的な世界とならんで、私たちには無機的な世界が台頭してきている。この世界は、科学によっていちだんと私たちに接近したのである。外面世界を今日かくもいちじるしく変貌せしめた科学的思考は、私たちの内面世界にあっても徐々に大きな役割を演じるようになり、今や、これまで私たちにとって最も個人的な関心事とされていたもの、すなわち芸術、いな宗教との関係にも深刻な影響をおよぼしそれを変質せしめつつある。ここから、ほからならぬ芸術および芸術活動にとっても、過去数千年にわたる人類の歴史の知らなかった諸問題が生起してきている。即刻これらの問題を注視することこそ、芸術家にとっての最大の課題であろう。
~同上書P268-269
いわゆる課題を、問題を当時認識していた音楽家がどれだけいたのか?
フルトヴェングラーの嘆きは、音楽芸術が、というより人類の思考が、意思が、とんでもない方向に進んでいっていることへの危惧から発するものだった。巨匠は、人類が智慧と慈愛を失いつつあることに警告を出さんとしたのである。
かつてベートーヴェンは—これを他の名前に置き換えることも可能であるが—大芸術家であり、聖者であり、私たち自身の神性への帰属を感知させてくれる恩寵の器であった。彼は、言葉にしかるべき幅をもたせて言うならば、一つの宗教的な現実であった。ヴァーグナーにとっても、ブラームスやマーラーにとっても、いぜんとしてそうであった。しかし今日、彼はもはや宗教的な現実としてこれほどの存在意義を有していないように見える。私は確信をもって言いうるが、現代の人々は、たとえば以前ならおよそ通用もしなかったベートーヴェンの演奏ですらも、不平ひとつ鳴らさずに甘受している。今日ベートーヴェンは、まず第一に「ヴィーン古典派」という歴史的な現象を意味している。これも当時はそれなりに意義を有していたことであろうが、もはや私たちと直接的にはほとんど無関係な事柄である。
~同上書P272
音楽が形骸化していくことへの無念。
それは演奏家のみならず、聴き手の問題でもあるように僕は思う。
ベートーヴェンが「宗教的現実」であったという言葉が重い。
従来ベートーヴェンの作品における大問題だとされてきた多数の問いが—この厳格な構成をとった音楽はまさに多くの問題をはらんでいるが—今や一挙に、いわばおのずと解決されてしまったかのように思われる。すなわち問題がなくなったのは、今日ベートーヴェンの作品がもはや解決を必要とする問題とみなされないからにすぎない。それがいかに演奏されようとも、もはや生死に関わる重大事だとは考えられないからである。リヒャルト・ヴァーグナーは、周知のごとく、ベートーヴェンのことを口にするとき我を忘れ、夢中になった。今日「科学」の洗礼を受けた者は、この話を聞いて、信じがたいといった驚きを示す。彼の場合、この驚きはベートーヴェンよりも、むしろヴァーグナーに向けられるものであろう。それどころか芸術作品を前にして「夢中になる」などとは、およそ「時代にふさわしい」ものではない。これも同じく、すでに克服された19世紀ロマン主義の産物だとされるのである。
~同上書P274
小川典子のベートーヴェン/ワーグナー編曲交響曲第9番(1998.5録音)を聴いて思ふ そしてまた、ベートーヴェンを享受することが、生死に関わる問題だとも言い切っている点が驚きだ(その言葉の真意までつかめる人が果たしてどれだけいよう)。
兎にも角にも聴く目を、見る耳を取り戻せとフルトヴェングラーは言う。
そう、科学では測ることのできない真髄をとらえる第三の目を、本質を見る目を持たなければならない。
その上で、ベートーヴェンの事例を並べながら、現代に生きる僕たちが何をしなければならないのかをフルトヴェングラーは最後に問いかける。
過去の偉大な作品は、直観に依存するところが多い。ところで演奏にあたっても、この直観は発言の権利を与えられるどころか、むしろあらゆる手段によって迫害され、排斥されている。楽譜の作品を演奏するに際して「直観」がいかなる役割を果たすものであるか。現代人は、この問題に総じて無関心になってしまったように思われる。
~同上書P275-276
そう、直観を磨け(取り戻せ)というのである。
結論は次の通りだ。
ここで有効な手段はただ一つ、すなわち生命と新しさを求め、当然それを過去にも絶えず求めてきた知性が、さらに知性的になることだけである。知性は、少なくとも今日その基盤をなす芸術および芸術家の「理想像」に甘んじることなく、あえてその領域に歩み入り、その住み家にまで迫らねばならぬ。かち得た歴史的展望を、支配意欲のためにではなく、方向づけのために用いねばならぬ。芸術作品という一度きりの出来事を、それが私たちにじかに訴えるものであるだけに、歴史的連関とひとしく、否それ以上に重視せねばならぬ。知性は、真の偉大さのために畏敬を、愛情を、熱狂的に捧げられる愛情を無条件に再び習得せねばならない。ヴァーグナーの『パルジファル』に見られるように、傷を癒すものは、その傷を与えた槍だけである。今日われわれが世間一般に認めざるをえない一面的な思考、その恐るべき影響に打ち勝つものは、思考それ自体、より高次の、より包括的な思考のみである。真正なる芸術は、素朴さ、それも相対的な素朴さの雰囲気でのみ成長することができる。
~同上書P281
より高次の思考、それこそ人類共通の、生きとし生けるものすべてが共有する「利他性」をいかに発露できるか、である。ベートーヴェンは「第九」の終楽章でシラーの詩を引用し、「皆大歓喜」の世界の到来を願う。
王陽明の説く「知行合一」の観点から言うなら、僕たち聴衆ができることの一つにベートーヴェンの真の再興を推し進めるために、たくさんの人にベートーヴェンを勧めることにあると思う。
73年前の記録。
造形力抜群。文字通り「自由さ」と「素朴さ」を獲得したウィーン・フィルとの第九。
バイロイトでの有名な実況録音にある熱狂はなく、最晩年のルツェルンにおけるライヴでの枯淡もなく、いかにもフルトヴェングラーらしい、中庸のベートーヴェンに、僕はこれこそ最高の「第九」の一つの形であるとしたい。
フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管のベートーヴェン第9(1954.8.22Live)を聴いて思ふ フィルハーモニーの音響だけが、その構成の民族的および流派的な統一性によって制約されているのではありません。この統一性は、感受性の一致、音楽的衝動の同一傾向のうちにも認められるのです。このオーケストラには、演奏に際して純粋な生命力の領域に属するとみなされる一切のものに関する驚くべき確実さが具わっています。それは本能的に音楽的な反応の生来の鋭さと自然らしさとも言えましょう。だからこそ彼らは音楽におけるすべての過度に精神的なもの、知性に偏ったものに対して躊躇とあからさまな不満を示し、すべての不自然なもの、たんに意図され、思考されただけのもの、音楽よりもむしろ「進歩」を狙う一切のものを、無言の、しかも根づよい首尾一貫性をもって拒否するのです。音楽に関するあまりにも保守的な態度ゆえにヴィーンは往々にしてドイツ本国でも悪評を買っていますが、これは明らかにヴィーンのよき面、積極的な一面でもあるのです。
「ヴィーン・フィルハーモニー—創立百周年記念講演」(1942年)
~同上書P196
フルトヴェングラー&ウィーン・フィルの第9交響曲 