カラヤン指揮ベルリン・フィルのシベリウス交響曲第4番&第5番(1976)を聴いて思ふ

sibelius_4_5_karajan_bpo_197103真面目にカラヤンに対峙すると、時に驚くような奇蹟的名演奏に出逢える。
表面が完璧に磨き上げられた彫像物。あまりに完全で、あまりに美し過ぎところがいかにも偽物っぽい印象を与えるが、魂の抜け殻のようなものかといえば、さにあらず。内側から放出される劇的、壮絶なエネルギーと、その(音響的)広がりをひとたび耳にすれば、この人がどれほどの豊かな感性と類稀な音楽的スキルをもっていたかがよく理解できる。
名盤誉れ高いグラモフォンの選集をおそらく凌駕するEMIのシベリウス選集。暗澹たる交響曲第4番の、晦渋さを一気に超越し、これほど繊細かつ鮮烈な音楽に仕立て上げた人は他にはいまい。何という素敵な音楽なのだろう。

第1楽章テンポ・モルト・モデラート,クワジ・アダージョの夢見るような「歌」。この録音を聴くまでこんなに幻想溢れる音楽だとはついぞ思わなかった。それは、冒頭数分の崇高な弦楽器群の、伸びる高音と激情的なティンパニの轟音、そして静かにうねる金管群など、ベルリン・フィルハーモニーの機能美あってこそのもの。
第2楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェの、木管による軽やかな旋律にかすかな愉悦を覚え、弦楽器による不安げな楽想に思わず惹き込まれる。
ほとんどアタッカのようになだれ込む第3楽章イル・テンポ・ラルゴの瞑想に心の静けさを思う。完璧な音楽だ。
そして、終楽章アレグロは未来への希望を誘発するシベリウスの決心のよう。グロッケンによるモティーフが可憐。

シベリウス:
・交響曲第4番イ短調作品63(1976.12.27-28録音)
・交響曲第5番変ホ長調作品82(1976.9.20-21&10.18録音)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」のあるシーンを思った。

「美しい川だ」と彼は自分を渡してくれる人に言った。
「たしかに」と渡し守は言った。「ほんとに美しい川だ。私は何よりもこの川を愛している。私はたびたびこのクァに耳をすまし、その目をのぞきこんだ。絶えず私はこの川から学んできた。川からはいろいろなことを学ぶことができた」
「ありがとう、私の恩人よ」とシッダールタは、対岸にあがると、言った。「私はおん身に贈るべき物も、払うべき賃銀も持たない。私は故郷を持たぬもの、バラモンの子、沙門だから」
「それはよくわかっていた」と渡し守は言った。「私はおん身から賃銀や贈り物をもらおうとは思っていなかった。いつか贈り物をしてくれることがあろう」
「そう思うかい?」とシッダールタは愉快そうに言った。
「たしかに。万物はふたたび来る!ということも、私は川から学んだ。沙門よ、おん身もふたたび来るであろう。では、ごきげんよう!おん身の友情が私の受ける報酬であるように。おん身がかみがみにいけにえをささげるとき、私のことをしのんでくれるように」
ヘルマン・ヘッセ著/高橋健二訳「シッダールタ」(新潮文庫)P64-65

万物はふたたび来る。シベリウスの音楽の源にあるのは輪廻転生の如く。
磨く抜かれた森羅万象の音楽を解釈するにカラヤンの右に出る者はいないのかも。この人は、極めて人間的でありながら、自然とも一体していた人だったのだろうと想像した。

カラヤンは現代的であり、彼の発言はすべて抑制がきき、考え抜かれたものだった。演奏解釈に責任をもつ人間として彼は自身に対して主観的な解釈や疑わしいと見られる自由行動を許さなかった。

カラヤンはあらゆることに気を配った。ザルツブルクで彼が指揮台から同時に舞台の演出も行い、巨大な祝祭劇場のあらゆる動きを記憶に留め、この大きな集団を芸術上でも組織上でも余すところなく掌握している様子を見た人間なら、彼の他面的な才能に感嘆の念でみたされたに違いない。
ヴェルナー・テーリヒェン著/高辻知義訳「フルトヴェングラーかカラヤンか」(音楽之友社)P69

行動をともにした年月は永いが、それでもカラヤン像を描いて見せることは難しい。駆け引きたくみに自身と数多くの手兵を投入して合戦を演じる将軍のイメージが一方にある。今一つのイメージは小柄で謙遜な彼が巨大な舞台に垂らされたカーテンにすがっている姿で―いまなおカラヤンは彼の能力を異口同音に讃える声を信じることができず、すべて自分の思い通りに行くことをつかみ切れないでいる。
~同上書P82

このアンバランスがカラヤン芸術の発火点であり、作品と見事に一致した時に最高の演奏が生れるのだろうと直感。シベリウスなどはその最右翼。交響曲第5番も実に素晴らしい。第1楽章コーダの激しい前進性などここまでしなくてもと思わせるほどの切迫感。とはいえ、これがまた異様なカタルシス。どういうわけか交響曲第6番の出来はいまひとつ。
それにしても交響曲第7番が再録されなかったのは痛恨の極み。

 

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