ブーレーズ指揮ベルリン・フィルのラヴェル「ダフニスとクロエ」(1994.5録音)ほかを聴いて思ふ

日本語の美しさを思う。
主語のない、すべてを包含する真理がそこにはある。
北原白秋に、立原道造に、佐藤春夫に、サトウハチロー、金子みすゞに、萩原朔太郎。そこにまど・みちおやさだまさしが名を連ねる、時空を超えた詩歌の旅。名作には必ず自然や季節が描かれる。古来、大宇宙、大自然と共にあった人間の、心の在り方の術がここにはある。
新旧の詩人たちの詩に、美しいメロディが付される妙。言葉は一層心に迫り、胸を打つ。

福井敬といえば、以前、松本隆訳の「美しき水車小屋の娘」の歌唱が素晴らしかった。原語にはない、日本語独特の柔らかさ、同時にその曖昧さに(矛盾するようだが)音楽こそが世界共通言語であると僕は直感した。

福井敬の3枚目の、日本の叙情、あるいは叙景を歌うアルバムを聴いた。
何という素朴さ、何という感性。すべてが懐かしく、すべてが美しかった。
タイトルにもなる白秋&耕筰の仏教世界にまつわる「六騎(ろっきゅう)」。たおやかで哀しい音調の歌は、誠実で虚ろなピアノ伴奏に乗り、永遠の輝きを放つ。

御正忌参詣らんかん、
情人が髪結うて待つとるばん。
御正忌参詣らんかん。
寺の夜あけの細道に。
鐘が鳴る、鐘が鳴る。
逢うて泣けとの鐘が鳴る。
(北原白秋)

・六騎ROKKYU~こころを歌う。
福井敬(テノール)
谷池重紬子(ピアノ)(2017.8.9-11録音)

あるいは、金子みすゞの詩に伊藤康英が曲を付けた「このみち」の、詩人の創造したミクロコスモスを、見事に大宇宙に転化する音楽の大きさと、それを歌う福井敬の大らかさ。

このみちのさきには、
大きな森があろうよ。
ひとりぼっちの榎よ、
このみちをゆこうよ。
(金子みすゞ)

言葉の美しさといえば、僕の中では三島由紀夫の文章に止めを刺す。
例えば「潮騒」。この、三島作品の中ではどちらかというと平易な文章で、よくもまぁこれほどの情景描写を上手にできたものだと感心する中編の小説は、一切浮足立たず、とても現実的で、読者をまるで自分がその世界に入り込んだかのように錯覚させるのだから素晴らしい。

初江は気がついて、今まで丁度胸のところで凭れていたコンクリートの縁が、黒く汚れているのを見た。うつむいて、自分の胸を平手で叩いた。ほとんど固い支えを隠していたかのようなセエタアの小高い盛上りは、乱暴に叩かれて微妙に揺れた。新治は感心してそれを眺めた。乳房は、打ちかかる彼女の平手に、却ってじゃれている小動物のように見えた。若者はその運動の弾力のある柔らかさに感動した。ほたかれた黒い一線の汚れは落ちた。
三島由紀夫著「潮騒」(新潮文庫)P33

男の視点からの、妖しいようで妖しくない、極めて奥床しい表現に舌を巻く。
ところで、三島は古代ギリシャの「ダフニスとクロエ」の物語に触発され、「潮騒」を書いたという。ギリシャ熱に浮かれた三島だが、彼の文章はラテン的というより、極めてゲルマン的で、またアポロン的要素を持つ端整なものだ。彼のこの物語に似合うのは、確かにモーリス・ラヴェルがバレエ化した「ダフニスとクロエ」だが、巷間名演として有名なクリュイタンスやデュトワの演奏したものではなく、僕はむしろ客観的で冷徹な印象を与えるブーレーズのものだと確信する。ここにあるのは、堅牢で端正な容姿でありながら、しかし、内燃するエネルギーとパワーに満ちた美しさ。

ラヴェル:
・バレエ音楽「ダフニスとクロエ」(1994.5録音)
・ラ・ヴァルス(1993.3録音)
ベルリン放送合唱団
ピエール・ブーレーズ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ベルリン・フィルの精緻なアンサンブルが、一層ゲルマン的様相を刺激する。曖昧さを許さない音楽は、ともすると窮屈になりがちだが、ブーレーズの棒さばきは実に流麗。分けても第3部の衝撃的美しさは、そこに人が介しているとは思えないほどの楽器と合唱の饗宴。
太陽を背にしてのダフニスとクロエの愛の踊りのエロスに感応し、愛の歌を奏でるヴァイオリンに嘆息が洩れる。そして、最後の全員での歓喜の踊りは言葉にならない。

音楽にインスパイアされ、物語をひもとき、そしてまた音楽に還るという連関。
すべてはひとつなのである。

 

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