
ベートーヴェンが交響曲第9番を作曲していた頃、ウィーンはロッシーニ旋風の最中だった。
まさにその時期、ベートーヴェンはロッシーニと会っている。
1822年、アントニオ・サリエリの紹介による。
言うまでもないでしょう、偉大な、彼の人が暮らすつましい住居へと繋がる階段を上りながら、私は感動を抑えるのにいくらか苦労をしました。扉が開くと、そこは全く恐ろしいまでに無秩序の、汚い物置のような小部屋でした。特に、天井に複数の大きな亀裂があり、屋根との間に遮るものもなく、雨が大量に降り込んだに違いないと思われたのを覚えております。
一般的に知られるベートーヴェンの肖像は、全体的な表情を比較的忠実に伝えています。しかし、いかなる彫刻刀も、ベートーヴェンの顔立ち全体に広がる、言いようのない憂いは表現できないように思われます。太い眉の下、まるで洞窟の奥からのように、小さくも射貫くような両の目が輝き、声は穏やかで、いくらかしゃがれていました。
~エドモン・ミショット/岸純信監訳「ワーグナーとロッシーニ巨星同士の談話録(1860年3月の会見)」(八千代出版)P30-31
ロッシーニの、ベートーヴェンに初めて会った印象が実にリアルだ。
当時、ベートーヴェンの経済的困窮が極限状態にあったことが如実にわかる。
そして、初の対面という状況での感動の様子から、ロッシーニはベートーヴェンを敵対どころか、心から尊敬していたことがわかる。
さらにベートーヴェンの助言は、「オペラ・ブッファでは、貴方がたイタリア人に並ぶことなど誰もできません。イタリア語と激しい気質が貴方がたをそのように定めるのです」というものだった。
そして、1824年、交響曲第9番の初演から幾度かの再演の際の様子から、ベートーヴェンとロッシーニの確執(?)のようなものは、周囲の者たちがでっち上げた逸話だろうということもまたわかる。
満員ではありませんでしたが、第一に大勢の人々が田舎に行ってしまっていたのです。立見席が高いのに辟易した人が大勢いました。だから立見席は全く空席でした。一つには、あなたの収益には関係がないことを人々は知っていたのですが、これは理由にはなりません(ベートーヴェンのギャランティーは500グルデンと決まっていた)。一つにはロッシーニのアリアに怒って席に入らなかったのです。わたしもそうです。
わたしはロビーに居ました。一つには聴衆の反応が聞きたかったのです。誰もあのアリアには憤慨していました。シュタットラー(僧侶シュタットラーは旧派の音楽の代表的人物)のまわりに小さな集まりが出来ていました。満足そうでした。
・・・
あなたの作品は、あんなことをなさったため、ロッシーニの下手な音楽と同じ範疇に入れられてしまうことになります。冒瀆です。」
まだつづくが、割愛せざるを得ない。この甥の話に多少の阿諛が含まれているとしても、ベートーヴェンと異質のロッシーニの音楽を組み合わせたことは、明らかに失敗であった。
~小松雄一郎編訳「新編ベートーヴェンの手紙(下)」(岩波文庫)P137-138
確かに両者の音楽は異質だ。
しかし、そこに通底する心そのものは同質のものだといえまいか。
問題は、あくまで当時の聴き手の趣味嗜好、乃至は勝手な是非に過ぎない。
1971年のエディンバラ音楽祭でのパフォーマンスと連動しての、アバド初のオペラ録音。
50余年を経ても色褪せない、アバドの卓越した棒と解釈を示す傑作だ。
(一聴、それとわかる劇的なロッシーニ・クレッシェンドの宝庫!)
繰り返し聴いて思うのは、ロッシーニのオペラはどれも楽しいということだ。
中でも、アバドの振るロッシーニは天下一品!
アバドの権威は、まさに音楽を作りあげる場で発揮されます。彼には、共に演奏するオーケストラの心理について、自然な勘が働くのです。プレッシャーをかけたり、急がせたりすることなく、オーケストラを成長させていくのです。強いるようなことはせず、まるでそれを初めて聴くかのように、一緒に作品に近づいていくことができる。楽団員は一人ひとりの責任感や信念から、全員をまとめる集中力が生まれます。(・・・)アバドは変に聞こえるかもしれませんが、音楽における小休符の名人です。小休符は、満たされ、緊迫し、広がり、充電される時間であるべきです。意識して作られた静寂なしには、音楽は生きてこないのです。
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P357
