ワルター指揮コロンビア響 ベートーヴェン 交響曲第1番(1959.1録音)

ここにあるのは、溢れるばかりに音楽で満たされた或る人生の歴史である。しかし、もしその音楽が私の音楽、つまり私によって創造された音楽であったのなら、私はこの本を書きはしなかったであろうと思う—音で書いた自伝が、きっと私の伝達欲を満足させてくれたことであろう。ところが私は他人の音楽をひびきにして伝える、ひとりの《再創造者》にすぎなかった。たしかに私も、再創造の天分の試金石となる行為、すなわち作品と一体になるというあの神秘的な行為をとおして、他人の音楽をそのつど、自分自身の魂の告白にしてきたは事実である。しかし、私の芸術が燃えあがるような生気を受けたとしても、つねにその消滅によって代償をつけなくてはならなかったし、私の人生が音楽的な深い歓喜をかちえたとしても、つねにその無常によって支払いをしなくてはならなかった。これが運命によって、私に課せられたことだったのである。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P7

指揮者ブルーノ・ワルターの存在価値、ここに極まれり。
この謙虚さと大らかさの両方が、ワルターの再生する音楽の軸であり、また胆だ。その上で、演奏とは、指揮とは「作品と一体となる神秘的な行為」だと断言する様に、彼の演奏のすべてがあるのだと思う。

青春のベートーヴェン。苦悩よりも喚起や希望が席巻する明朗快活な音調は、ある意味ベートーヴェンの神髄だ。世界のしくみを感知し、最後は悟ったベートーヴェンは、人生の早い段階で悟っていたのだろうと想像する。若書きとはいえ、そこには驚くべき革新がある。

ベートーヴェン:
・交響曲第2番ニ長調作品36(1959.1.5&9録音)
・交響曲第1番ハ長調作品21(1958.1.6&8録音)
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団

交響曲第1番は、明らかにハイドンの影響下にある作品だけれど、それでもハイドンにはない、一筋縄では語れない味わいがある。
やはり第1楽章アダージョ・モルト—アレグロ・コン・ブリオが絶品(序奏の浮足立った不安定さはクロード・ドビュッシーのはしりかどうか)。続く第2楽章アンダンテ・カンタービレ・コン・モートの愁いはワルターの母性の賜物、同様に第3楽章メヌエットの堂々たる風趣はワルターの父性の賜物か。そして、終楽章アダージョ—アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェにおけるコーダの金管の強奏は、ベートーヴェンの未来音楽開拓への狼煙ともいえるものだ。

大コンサートで初演したシンフォニー第1番Op.21の完全原稿作成には時間がかかり、その後にOp.19~Op.22、4曲まとめてホフマイスターに渡して、それらに作曲順に番号を与えた。1801年4月22日に次のように書く。

作品ができるだけ然るべき順序で続くよう、あなたはソナタにOp.22を、シンフォニーにp.21を、七重奏曲にOp.20を、コンチェルトにOp.19を設定するのでどうでしょうか。
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築1」(春秋社)P173

自作の番号にこだわり、これほどまでにきちんとコントロールしようとしたベートーヴェンは、創造者であり、またビジネスマンでもあったということだ(ヘンデル同様に)。ならばやはり彼の創造した作品すべてに「意味」「意義」があろう。

ブルーノ・ワルター最晩年のステレオ録音はいずれもが逸品。中でもベートーヴェンの交響曲はすべてが素晴らしいとあらためて思う(交響曲第2番もまったく色褪せない絶品。中でも第2楽章ラルゲット!)。

過去記事(2008年7月5日)

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