エマーソン弦楽四重奏団 ヴェーベルン 弦楽四重奏曲作品28(1993.9録音)ほか

アンドレイ・タルコフスキーは、日本文化に、否、日本人に、日本そのものに一目置いていた。日本国こそが扶桑の葉であり、経世済民をモットーとする、21世紀にこそ必要な国であることがわかっていたのだろう。
(明治維新の志を思い出せと、当時の志士たちは口を揃えて言う)

反対に、タルコフスキーにとって映画の創造はシンボルの生産ではなく、「〈時間の彫刻〉」である。彫刻家が粘土から自分の立体的な、三次元的な作品を作るように、映画作家は現実的な本物の運動の断片から「〈個人的な時間の流れ〉」を組み立てる。この流れは明確な、厳密に規定された指向性を持っている。それは、「君が、自分がショットの中に見ているものは視覚的な連鎖に尽きるのではなく、ただ何か〈ショットの外に〉広がっているもの、ショットから〈人生の中へ〉入ることを可能にするものを暗示しているだけだということを意識する時に」、感じられるものになる。そこに、ショットの枠の外に観客を連れ去るのは創造された時間の奔流であり、映像は立体性や多様性や流れの一体性のおかげで、現実自体と同じくらいに汲み尽くしがたいものとして知覚される。こうした無尽蔵さは、タルコフスキーによるとごく小さな17音節の発句にさえ固有のものであるが、何故ならそれらは「自らのイメージを方法にまで育て上げ、その結果・・・その究極的な意味を失っているからだ。それらは自分自身以外には何も意味しないが、それと同時に余りに多くのものを意味しているので、それらの本質を理解する長い道程の果てには、その最終的な意義をとらえることが不可能であることが理解されるのだ」。
発句に対するこのような見方は、日本の民族的伝統に合致している。「映画映像について」という論文の中でタルコフスキーは、このジャンルの創始者である松尾芭蕉(1644-1694)の詩、特にその中でも最も有名なものを引用している。


  古い池。
  蛙が水に飛び込む。
  しじまの中の水音。
  (古池や蛙飛び込む水の音)


既に3百年近くも、「古池」は傑作と見做されている。その3つのごく短い文、そのうち二つは名詞文であるが、それらは単に見体的事実を伝えているだけである。それと同時に、それらは静まりかえった世界の無限性を感じさせる。それ(世界)は孤独な、疎外された人間にとって、沈黙している。色彩や音や現実の出来事は、まるで人間を見捨て、見えるものと聞こえるものの境界外にあるようだ。蛙によって引き起こされた、死のような静けさの微かな攪乱は、詩人を取り巻く静寂の広漠たるやり切れなさを鋭く強調している。
(ワレンチン・ミハルコーヴィチ/西周成訳「映像のエネルギー」)
アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編/沼野充義監修「タルコフスキーの世界」(キネマ旬報社)P335

タルコフスキーは、俳句の内なる真理をいつぞや体得し、映画映像について論を展開する中に引用したのだと思うが、人間が思考や感情に左右されている以上は、本来静かな世界とはますます乖離し、そこに孤独というものが生まれるのだということまでは当時理解できなかったのかもしれない。
人間は見捨てられてはいない。
むしろ人間が世界を、真理を見放してしまったのだということを知らねばならない。
ゆえに僕たちは誰しも本性を開示し、本当の自分を明らかにする必要があるのである。

ミハルコーヴィチは論を続ける。

3行の短い句が何世紀も想像力を刺激しているからには、つまり、その中に含まれている感化のエネルギーの蓄積が極めて大きいということだ。もう一人の詩人、香川景樹(1768-1843)は、この有名な詩に自分の短歌を捧げた。

  たとえ私が
  古い池の
  秘められた奥底を究めなかったにせよ、
  今では聞き分けられる
  しじまの中の水音を
  (ふりにける池の心はしらねども今も聞ゆる水の音かな)


香川景樹は水音を聞き、また世界を孤独と沈黙の無限空間として感じているが、(芭蕉の)詩に固有の感化のエネルギーは詩人にとって謎のままだった。彼は「古い池の奥底を・・・究めなかった」。
~同上書P335-336

感化には、すなわち成全には、自らの内側を静寂に調えねばならないということだ。

西洋音楽の分野におけるアントン・ヴェーベルン。
残された作品数は少ないが、年齢を重ねるごとに緻密な、理知の塊のような音楽が生み出される。アントン・ヴェーベルン全集から1枚。
「動静相まってキレが生じる」とはまさにヴェーベルンのためにあるような真理だ。

ヴェーベルン:
・弦楽四重奏のための緩徐楽章(1905)(1992.10録音)
・弦楽四重奏のための5つの楽章作品5(1909)(1992.10録音)
・弦楽四重奏曲(1905)(1993.12録音)
・弦楽四重奏のための6つのバガテル作品9(1911-13)(1992.10録音)
・弦楽四重奏のためのロンド(1906)(1993.12録音)
・弦楽三重奏のための楽章(遺作)(1925)(1994.6録音)
・弦楽四重奏のための3つの小品(1913)(1994.6録音)
・弦楽三重奏曲作品20(1926-27)(1994.6録音)
・弦楽四重奏曲作品28(1936-38)(1993.9録音)
マリー・アン・マコーミック(メゾソプラノ)
エマーソン弦楽四重奏団
ユージン・ドラッカー(ヴァイオリン)
フィリップ・セッツァー(ヴァイオリン)
ローレンス・ダットン(ヴィオラ)
デイヴィッド・フィンケル(チェロ)

空白、休符、時代とともに変遷するヴェーベルンの音楽は、後期ロマン派の影響を脱した頃から、ほぼ微分された極小世界の、ミクロコスモスの、止まることによるキレをいかに表現できるかが演奏の良し悪しの分岐点だ。

エマーソン弦楽四重奏団の演奏は、現代的理知の顕現でありながら人間的情感を忘れない、バランスの取れたものだ。

エマーソン弦楽四重奏団のヴェーベルン室内楽作品集を聴いて思ふ エマーソン弦楽四重奏団のヴェーベルン室内楽作品集を聴いて思ふ

アントン・ヴェーベルンはバッハの対極にありながら対(つがい)の存在であるように僕は思う。それくらいにシンパシーを覚える作曲家だ。

ヴァルヒャ J.S.バッハ オルゲル・ビュヒラインBWV599-644(1969.9録音)

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