無境界

「無境界」という本を読んでいる。いわゆるトランスパーソナル心理学の書。やっぱり僕がここのところ感じていることは正しいのだと再確認する。我々の世界は相対立するものの膨大な集合体だ、と。我々が抱えている問題の大半は境界とそれが生み出す対立の問題だ、と。そして、相対立するものを分離し、肯定的な一半を執着や追求の目的とするのは、進歩的な西洋文明を際立たせる特徴で、進歩とは結局、否定的なものから離れ、肯定的なものに向かって進歩することである、という。その意味では「人間」の創り上げた文明というのは矛盾だらけで刻一刻とバランスを欠いたものになる。それは明白だ。

どちらが正しいとか何が間違っているとか、そういう問題ではない。闇があり光を認識する。悪があるから善を認識できる。自分という存在があり自然を含めた他のものを認識できるのだ。全ては「一」に帰するということを今こそ気づかなければならない。こだわり、執着を捨てよう。

夕方からある知人のカウンセリングをした。人間の執着というのは「個」に向かったものだ。「自分」へのこだわりを捨て、他に意識を転じたときに人間は解放される。そして「境界」を認識し、それを越え、「一」に帰することが初めて可能になる。やはり人は「他」を欲する。「他」と交わらなければ何事も進展しない。

ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉Hob.XX/1
リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1982Live)

第1ソナタ 「父よ!彼らの罪を赦したまえ」
第2ソナタ 「おまえは今日、私と共に楽園にいる」
第3ソナタ 「女性よ、これがあなたの息子です」
第4ソナタ 「わが神よ!何故私を見捨てたのですか?」
第5ソナタ 「渇く!」
第6ソナタ 「果たされた!」
第7ソナタ 「父よ!あなたの手に私の霊を委ねます」
地震

イエス・キリストは「境界」をなくし、他に意識を集中できた「人」なのだろう。そのキリストの最後の言葉を音楽で表したハイドンの敬虔なる傑作。祈りに満ちた温かさ、深遠なる想い、安らぎに満たされた情感豊かな音楽である。

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1 COMMENT

アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » ケルビーニ万歳!

[…] それこそ僕はリッカルド・ムーティの指揮に感動したことがなかった。 昔、ウィーン国立歌劇場で「フィガロの結婚」を観た時もそう。音盤でも、彼のモーツァルトやブルックナーなど一向に心を動かされなかった。 でも、いつぞやハイドンの「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」を聴いて(ベルリン・フィルとのスタジオ録音とウィーン・フィルとのザルツブルク音楽祭ライブがあるが、2種とも)、すごく感激した。これはもちろん楽曲が優れていることに依るのだけれど、ムーティがモーツァルトを振る時の心構えと「何か」が違うように思われた。 同じくルイジ・ケルビーニのミサ曲等を収めたボックス・セットについて、いずれの作品も新鮮な喜びと敬虔な祈りに満ち、あのムーティが音楽を創っているんだとすっかり忘れてしまうほどインパクトが大きい。 […]

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