静かなる「ペレアスとメリザンド」

昨日と今日、相当に頭を使った。全脳的にバランスよく使っていれば問題なしなのだが、どちらかというと「左脳」寄りの使い方。だから、心地よい疲れというよりどっと疲れが押し寄せている(汗)。

パスカルは「人間は考える葦である」と「パンセ」の中で書いた。そして、デカルトも「我思う、ゆえに我あり」と言った。偉い哲学者の表現だからもちろん含蓄のある素晴らしい言葉であることはわかっているが、単に「思考する」ことが人間の特権であるというなら、それは進化ではなく退化なのでは・・・。彼らの言う「考え、思う」ということの中には「感じる」という要素も含まれていよう。「思考」をぐるぐるめぐって「悩む」のではなく、「発想すること」、「イメージを飛翔すること」こそ、自身の才能を刺激するポイントじゃないか。

ここまで考えて思った。いや違う。無になること。何にも考えないこと。ただ頭の中を真っ白にすること。それこそが「自由」になるということ。それが一番。

あ、また余計なことを考えた・・・(苦笑)。
今日はもう何も考えないようにする。だから音楽もただ耳を傾け、その中に没入する。ただそれだけ。

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」
マリア・ユーイング(ソプラノ)
フランソワ・ル・ルー(バリトン)
ホセ・ヴァン・ダム(バス)
クリスタ・ルートヴィヒ(メゾソプラノ)ほか
クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

「ペレアス」の素晴らしさがようやくわかってきたような・・・。終始静寂に包まれた、官能的な音楽を、耳をそばだてながら聴く行為は気持ちを落ち着かせ、安心させてくれるという効果がある。ただそこにあるような・・・。

あ、また考えてる・・・(笑)。とにかく大人しくしよう。
無になること、空になること・・・・。
今日はもうおしまい。


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ドビュッシーの「ペレアス」は、フランス語の語感抜きでは存在し得ない音楽ではないでしょうか。
フランス語でささやく響きの香りそのもので成立しているというか・・・。
ドイツ語や日本語での「フィガロの結婚」はあっても、
ドイツ語や日本語でのドビュッシー:「ペレアス」は、ちょっと考えられませんね。

言葉が音楽と不可分のオペラや声楽曲を聴いて、
>今日はもう何も考えないようにする。だから音楽もただ耳を傾け、その中に没入する。ただそれだけ。
になれるのは、そのオペラの言語が母国語かどうかにもよりますね。
その言語を聴いて意味が理解できればできるほど、
聴き方は「左脳」寄りになってくるでしょうね。

言葉と音楽の関わり合いについて考えていたところ、
ついに一度観たかった字幕付映像を発見しました!

【Bach】コテコテ大阪弁訳「マタイ受難曲」 第42曲~第46曲
http://www.youtube.com/watch?v=xbqbo_XRnyQ&feature=related

【Bach】コテコテ大阪弁訳「マタイ受難曲」 第47曲~第48曲
http://www.youtube.com/watch?v=f0SfKxM6wK0&feature=fvwrel

>無になること。何にも考えないこと。ただ頭の中を真っ白にすること。それこそが「自由」になるということ。それが一番。

つまり岡本はんが言わはるのは、
「自由」を手に入れるには、仙人を目指さなアカン言うことでっか?
まあ、禅寺で座禅組むいうのも、ごっつ効果あるかもしれまへんね、
ワテら日本人には(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。

>「ペレアス」は、フランス語の語感抜きでは存在し得ない音楽ではないでしょうか。
>フランス語でささやく響きの香りそのもので成立している

おっしゃるとおりですね。特にフランス語の語感については僕も同感です。
マタイの大阪弁訳、おもろいですな。ご紹介ありがとうございます。しかし、シュライヤーが真面目な顔して「イエスはん、・・・」なんて歌うと少し間が抜けた感じがしますね(笑)。

>「自由」を手に入れるには、仙人を目指さなアカン言うことでっか?

いやいや、少なくとも昨日の記事に関してはそない難しい意味で書いたんちゃいます。
ただ、ぼけっとしたいっちゅうことでんな。

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