小休止

千葉県の某大学の前期授業が今日で終了した。わずか2ヶ月の講義だったが、ひとりひとりの成長ぶりは著しい。傍目から見ていても立派なものだと思うが、それを自分が自覚するのだからこの講義は大したものだと我ながら自画自賛(笑)。長年、若者の成長をサポートする仕事に携わっているが、20歳そこそこの年齢が一番素直で吸収力があり、あっという間に要領を得る力があるものだとあらためて感じた次第。

ここのところの19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ音楽界の話から、またもやマーラーにするか、それともワーグナーにするか、いやいやリヒャルト・シュトラウスにするかいろいろと思案して、20年前にリリースされたウィーン・フィル創立150年記念ボックスから60年代にカール・ベームが指揮した録音を取り出した。69年のシェーンベルク「ペレアスとメリザンド」、そして63年のシュトラウスの「死と変容」が収録されているが、いかんせんシェーンベルクに関してはまったくもって勉強不足。マーラーが第5交響曲を初演した同じ頃にツェムリンスキーの「人魚姫」と同時に初演されたことは先日も書いた。たまたまベーム指揮によるこの作品の録音があることを思い出して1回通したものの・・・。このあたりの音楽は、ともかく聴き込みが足りないとまったくもって「豚に真珠」、「猫に小判」状態になる。ましてや少々疲れている状態で「ながら」で聴いて、何かを云々する軽い作品でもないから、今日のところは少し気分転換ということで耳にやさしいものを採り上げることにした。真夜中に聴くのにぴったりの音楽。

シューベルト:4つの即興曲集D935
アルフレート・ブレンデル(ピアノ)(1975録音)

若き日のブレンデルの沈着冷静な中に最晩年のシューベルトの「想い」が詰まった、とても悲しげな、そしてとても喜ばしい一品。ここの中にも喜怒哀楽のすべてが表現される。1827年頃に作曲されたということだから、その時ファニー・メンデルゾーン22歳、フェリックス18歳。さらにワーグナーは14歳ということになる。ベートーヴェンはぎりぎり存命だったか、それとも死の直後か・・・。

正直、何て言うことのない「普通」の演奏だが、まぁ、今日のところはごちゃごちゃ考えず、ただひたすら音楽に身を浸そう。この美しくも透明な楽曲たち(長いけど・・・笑)に寄り添って・・・。


7 COMMENTS

雅之

おはようございます。

今回は「小休止」ということですので、私のほうも全文「雑談」とさせてください(笑)。

唐突ですが、何だかんだ弊害を批判されたって、インターネットの恩恵って凄いですよね。
私は、周囲にちょっとした読書家として鳴らしていたつもりだったんですが、まあ、この数年ネットから、どれほど有益な情報を得たか計り知れなく、もはや書物からよりはるかに多大な、物事のエッセンスや気付きをもらっている気がします。

その一例として、昨日も話題にしました、ニーチェの提唱した「永劫回帰」についてお話します。

ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』については、高校生の時、手塚富雄氏による名訳で読んで以来ずっと今日まで、難しくて、わかったようなわからないような感じでした。特に、何で歴史主義の否定で、一歩間違えば危険思想だと言われるのか、自分の中ではよく消化しきれなかった。

それと、私は日本人であるからなのか、宗教では仏教が一番しっくりくるのですが、輪廻思想っぽいのだけはどうにも苦手で受け入れられなかった。人類の人口増加の歴史から理屈で考えてもそんなの絶対ないと思っていたし、次に何に生まれ変わるのか、ひょっとしたらビフィズス菌や宇宙人に生まれ変わるかもしれないと不安を煽る思想なんか絶対に厭だと思い続けてきました。妻、子、親、友人など、親しい人たちとも死んだら生前の記憶もなくなり離れ離れになるし、死の恐怖ってそういうことだと漠然と考えている人もおそらく多いでしょう。

「輪廻」と「永劫回帰」の違いについて、追究もしてこなかったし、
長いこと、よく理解していなかったんです。

ところがです、お恥ずかしいことですが、例によってウィキペディアで調べて、これがまたじつにわかりやすくて私には「目から鱗」だったんです。こりゃ、マーラーもリヒャルト・シュトラウスもハマったはずだわと、納得しましたね。
この思想を信じることができたら、死の恐怖からも、それに伴う家族や友人との永遠の別離の寂しさからも解放されると、はっきり思いますもの。
それどころか、何か、すべての問題や悩みから解放される感じってゆーか・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB%E5%9B%9E%E5%B8%B0

引用してみます。

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永劫回帰
永劫回帰(えいごうかいき、ドイツ語: ewig wiederkehren)または同じものの永劫回帰(Ewige Wiederkunft des Gleichen) とはフリードリヒ・ニーチェの思想で、経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。

概要
ニーチェの後期思想の根幹をなす思想であり、『ツァラトゥストラはこう語った』においてはじめて提唱された。

「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。

永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。万物斉同。すなわち、永劫回帰は終末における救済というオプティミズムとの対比でしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。

永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。 仮に2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服していたとしよう。命尽きて生まれ変わっていたとしても、2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服している。リセットしてカセットテープを巻き戻しただけの状態になる。これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。

ニーチェ自身は永劫回帰の思想をほのめかすだけにとどまっている。

ニーチェは『権力への意志』で、物理学のエネルギー保存の法則をその根拠のひとつとしている。

哲学史における意義
ニーチェは永劫回帰を直感的、文学的に語っているために、その体系的な意味合いは不明瞭である。おそらくニーチェ自身も十分消化し切れてはいなかったであろう。

ただ、宗教的な意味合いにおいては、永劫回帰はキリスト教的な来世や東洋的な前世の否定であり、哲学史的な意味合いにおいては、弁証法の否定と解釈できる。ニーチェは永劫回帰を説き、弁証法を否定することによって、近代化そのもの、社会はよりよくなってゆくものだという西洋的な進歩史観そのものを覆そうとしたのである。弁証法は、近代哲学の完成者といわれるヘーゲルの基本概念であり、これを否定することは文字通り、近代哲学を覆そうとする試みであった。ニーチェの永劫回帰の思想は、ポスト・モダンの近代批判に大きな影響を与えることになる。

すべての善悪、優劣は人間の主観的な思い込みに過ぎず、絶対的な善悪だけでなく、相対的な善悪も否定する、価値相対主義の極限という点では、ブッダの諸行無常・諸法無我、荘子の万物斉同論に近いかもしれない。絶対正義を語るキリスト教の強い西洋思想というよりも、東洋思想によく見られる発想である。が、仏教については諦観だとしてニーチェは否認しているので、永劫回帰はもっと能動的である。すべてのものは平等に無価値であり、終わりも始まりもない永劫回帰という究極のニヒリズムから、運命愛にいたり、無から新価値を創造、確立する強い意志を持った者をニーチェは超人と呼んでいる。しがらみも伝統も秩序もまったくの無であるということは、そこからあらゆる新価値、新秩序が構成可能だということである。・・・・・・以下略
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また、「永劫回帰」では、マジェイアさんのサイトの文章がとてつもなく説得力があり、勉強になり、私は強い感銘を受けたんです。感謝してもしてもしきれないくらいです。
この内容を、一人でも多くの人に知っていただきたいです。
今悩みを抱えている人も、きっと、救われますよ(笑)。

マジェイアさんのサイトより
http://plaza.harmonix.ne.jp/~k-miwa/bonnou/nietzsche.html
以下同サイトより全文引用します。

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永劫回帰
百万と一回目の生

1998年10月9日

西洋の人にとっては、東洋の「輪廻転生」という思想はどうにも唐突なものに思えるらしい。キリスト教では死んだら天国か地獄へ行き、そこで永遠に暮らすことになっているからだろうか。

ニーチェがツァラトゥストラに語らせた「永劫回帰」(えいごうかいき)」は、西洋の思想としてはめずらしく「輪廻転生」に似ているが、実際はまったく違う。

仏教での輪廻転生は、人は修行のためにこの世に生まれてきて、修行のために何度も何度も多くの生を経験することになっている。

「永劫回帰」は、今まで自分の生きてきた生をそっくりそのまま、また繰り返す。これが無限に続く。今まであなたが経験してきたすべてのこと、うれしいことも悲しいこともすべてひっくるめて、一からまったく同じことが始まる。ビデオの再生を何度も繰り返すように。

こう言われても、「まあ、それも悪くないか」と思っている人もいるだろう。しかし、本当にそう言い切れる自信があるだろうか。今までのあなたの人生がそこそこうまくやってこれていたのなら、そう言える人もいるだろう。しかし、今までのことだけでなく、これから先、あなたにどのようなことが起きるかわからない。そのようなリスク、不安も全部ひっくるめて、なおかつ、”Yes”と言える自信があるだろうか。

今までのすべての喜び、悲しみも、これから先起きるであろう、すべてのことをひっくるめて、「もう一度でも、二度でも、百万回でも同じことを繰り返してもよい」と言い切れるとき、人は何も恐くなくなる。しかし、これは大抵の人にとって、簡単なことではないはずだ。だがこれが言えない限り、自分自身の生を肯定できない。「すべてOK!」と言えたとき、自分の過去への復讐心も消え、将来に対する不安も消える。

人は喜びも悲しみも経験しながら生きてきた。もし、繰り返される生があるのなら、今度は楽しいところだけにして欲しいと願うのもよくわかる。しかし、あなたが今まで経験してきた悲しい出来事、悔しい出来事、思い出したくもない出来事、それらをすべてすっぽり消してくれる薬が現実にあったなら、あなたはそれを飲みたいだろうか。それさえ飲めば、今まで経験してきたすべての嫌なこと、悲しいことが全部あなたの記憶から消えて、残っているのは楽しい想い出ばかりという薬があるとして、本当にそれを試してみたいだろうか。記憶から消えると言うことは、現実に体験しなかったのと同じことである。このような薬があっても、ほとんどの人は「いらない」と言うだろう。

うれしいことと悲しいことは、実際には分けられない。そのことを人はよく知っている。片一方を消してしまえば他方も一緒に消えてしまう。全部を肯定するしか仕方がない。「美味しいとこ取り」は出来ない。美味しいと思えるところだけを抜き出してきても、そこだけ食べたところで実際はまったくおいしくない。すべての体験が何もかも混ざり合ってあなたができている。一部だけを抜き出してきても、それはもうあなたではない。あの体験もこの体験も、全部肯定して自分ができている。

これから先、私にもあなたにも何が起きるかまったくわからない。不安と言えば不安だろうが、そう恐がることもない。どうせなるようにしかならない。うれしいことも悲しいことも含めて、「すべてOK!」と心の底から言えるようになったとき、自分自身が何かに向かって動き出していることに気がつく。動き出すことが恐くない。変化が恐くない。おもしろくなる。何かに挑戦してみることもOK、ずーと寝ていたいのならそれもOK。
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ふと思ったんですが、同じ音盤を何度も聴くという行為は、「永劫回帰」の疑似体験ではないでしょうかね?
てゆーか、クラシック音楽を聴くことの本質自体、、「永劫回帰の疑似体験」かもしれませんね(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。
雑談と言うには、あまりに深すぎる内容です(笑)。
おっしゃるとおり、インターネットの存在はとても大きいですよね。
ちょっと調べればいろんなことがわかる。
ご紹介いただいたサイト、いずれも素晴らしいです。ありがとうございます。

ニーチェに関しては僕もほとんど理解できておりません。
ようやく最近になって漠然と「超人」や「永劫回帰」についてとらえられるようになってきたかなとも思います。
いつかシュトラウスのツァラトゥストラをとりあげたときにそんなことも書いたように思います。

ところで、彼の思想については僕の浅薄な知識ではまったく太刀打ち出来ないのでコメント致しませんが、少なくとも人間という視点からみると相当にコンプレックスの強い人だったんだろうなぁ、と推測します。
キリスト教というものを否定するために新しい概念を作り出した。しかも、東洋思想についていまひとつりかいしきれなかったものだからあえてそういうことをした。思想の是非については云々しませんが、生涯「己」と闘っていたんだなと思うのです。

例えば、ワーグナーについても、若い頃はぞっこんだったのに、ある時期突然翻り反ワーグナーになる。そのこと自体はとやかくいいませんが、表層的で、うわっつらの感情に流されるようなところがあった。陰陽や好き嫌いを超越したところに真理があるはずなのに、どうもそれを超えないまま狂死してしまった。あくまで自我に固執していたところにニーチェの「弱さ」があるように僕には思えます。

とはいえ、思想そのものをどのように解釈するかはすべて受け手側の問題だと思います。マーラーもシュトラウスもはまったというのは、それくらいに奥深く、かつ真理に非常に近いところに近づいたからだと思うのです(偉そうですが・・・笑)。

僕は輪廻転生については肯定派です。もし今の時代、ニーチェが生きていたら、すんなりと東洋思想も理解できたんじゃないかなとも思います。ニーチェともあろう方ならインターネットを駆使して、調べ尽くすでしょうしね。そしたらひょっとすると「永劫回帰」という思想は生まれなかったかもしれません。

※ニーチェの著作に関してその全てを熟読し、コメントしているわけではないので間違った考えもあるかもしれません。一時期僕もそのすべてとはいわないまでもある程度読んでみようと目論んだことがありましたが、挫折しました(苦笑)。

難しい・・、というよりエゴイスティックなところがどうも受付ないのです・・・。(ま、いずれまた挑戦してみようとは思っていますが)。

とりとめもない感想でした・・・。小休止になってないですね・・・(笑)

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雅之

こんばんは。

>どうもそれを超えないまま狂死してしまった。あくまで自我に固執していたところにニーチェの「弱さ」があるように僕には思えます。

そのご感想自体が、「陰陽や好き嫌いを超越したところに真理があるはず」なので、完全にパラドックスになっちゃってますね(笑)。

>もし今の時代、ニーチェが生きていたら、すんなりと東洋思想も理解できたんじゃないかなとも思います。ニーチェともあろう方ならインターネットを駆使して、調べ尽くすでしょうしね。そしたらひょっとすると「永劫回帰」という思想は生まれなかったかもしれません。

私は、むしろ、もしニーチェが生きていたら、宇宙論や量子力学に興味を示すと思います(笑)。
「すべてのものは平等に無価値であり、終わりも始まりもない永劫回帰という究極のニヒリズム」美学の延長なら自然にそうなりそうです。

ウィキペディア スティーヴン・ホーキングの項より

・時間順序保護仮説によって過去に戻るタイムマシンは不可能という立場をとっているが、これは「我々の時代に未来からの観光客が押し寄せたことはない」ことからも裏付けられるとしている。タイムマシンが将来的に完成するかどうかに関しては「私は誰とも賭けをしないだろう」と、その可能性に含みを残す発言もしている。

・2010年9月7日に刊行された新刊書(原著名”The Grand Design”)で、量子力学に重力の理論を組み合わせた最新の研究成果から、偶然の一致に見える現象は「創造主なしで説明は可能」、「宇宙誕生に神は不要」と主張し、宗教界から批判を浴びた。

・2011年5月には、人間の脳について「部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人の架空のおとぎ話だ」と否定的な見解を述べ、改めて宗教界との認識の溝を示した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0

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岡本 浩和

>雅之様
あいたたた(苦笑)。
「人間は考える葦である」といいますが、下手に思考すると矛盾を招きますね・・・。
昨日は小休止のはずで、考えるのを止めようと思ったんですが(笑)

要は、まだまだ何もわかっていないということですね。
より精進させていただきます。

ありがとうございます。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。再度思ったことを書きます。
「神は死んだ」といったニーチェはまさにホーキング博士と同じような思考だったのかもしれません。
ただ、ニーチェの場合、やっぱりそれもコンプレックスに裏打ちされた「作られた思考」のように僕には思えてなりません。量子力学や宇宙論に興味をもつだろうというのは十分納得のゆく仮説ですが、ひねくれてみて、宗教そのものにはまっていく(特に仏教)のではないかとも思うのです。

ホーキング博士のことはほとんど知りませんが、いわゆる科学では測れない、説明不能の世界というのは存在すると僕は思います。(ただし、言論や思想については自由なので、宗教界から反発が出ようが何だろうが、どちらでもいいことです。)

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雅之

>ただ、ニーチェの場合、やっぱりそれもコンプレックスに裏打ちされた「作られた思考」のように僕には思えてなりません。

それが何か? 悪いんですか?
コンプレックスに裏打ちされた「作られた思考」を否定したら、クラシック音楽の99パーセントは聴いていられません。

ちなみに、「137億年前、ビッグバンにより宇宙が誕生した」という宇宙論は、よく指摘されるように創世記冒頭の「はじめに光ありき」そのもので、ホーキング博士が意識しようがしまいが、宗教そのものだと私は思います。ニーチェの「永劫回帰」も、私に言わせれば宗教です。

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岡本 浩和

>雅之様
いや、どうもしないです(笑)。
いっそのことワーグナーも神も否定しないで、「超人」や「永劫回帰」に行き着いていればもっとかっこ良かったのになぁと思うくらいですね。

>ホーキング博士が意識しようがしまいが、宗教そのものだと私は思います。ニーチェの「永劫回帰」も、私に言わせれば宗教です。

そうなんです!!そういう意味では全部宗教です!(笑)

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