モーツァルトは難しい

10代の頃、クラシック音楽を少しずつ聴き始めた頃、ご多聞にもれず音楽蒐集の対象はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだった。ワルターの「アイネ・クライネ」やベームの第40番に度肝を抜かれて、というよりその美しさに聴き惚れて、ラローチャ&ショルティの第27番協奏曲に出逢ったのをクライマックスにして、年がら年中モーツァルトをスピーカーから流していた。あの頃がとても懐かしい。
30年前の確か今頃、初めて生のオーケストラの音を聴いた大阪国際フェスティバルでのムターによる協奏曲の夕べのプログラムはモーツァルトの第5番とブラームスだった。多分、アンコールもあっただろうが、全く記憶にない。この時はすでにモーツァルトへの熱も一時期よりは下降気味でお目当てはブラームス。痺れた、泣いた。あの時のフェスティバルホールの光景、中之島の風景はいまだに忘れられない思い出だ。

モーツァルトの方も当然名演奏だった。ムターらしいヴィヴラートを目いっぱい効かせたロマンティックなモーツァルトだったように思うが、残念ながら今は記憶の彼方。
あの頃はどうにもモーツァルトを軽く扱っていたのかな。

久しぶりにヴァイオリン協奏曲を聴いた。あの頃、名盤とされていたグリュミオー独奏の音盤で。何だか気持ち良くなった。愉快・・・にもなった。ザルツブルク時代のモーツァルトの作品は特に「聴く者」を意識して書かれているゆえとてもわかりやすく悦びに溢れている。グリュミオーの颯爽として甘いヴァイオリンの調べが輪をかける。

モーツァルト:
・ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K.216
・ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調K.219
アルトゥール・グリュミオー(ヴァイオリン)
サー・コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団(1961.11録音)

恥ずかしながら、このところモーツァルトを「再発見」したような気分。
繰り返し何度も聴いてきた楽曲がとても新鮮に響く。
僕の感覚が変わったのか、聴く視点が変わったのか。ともかくモーツァルトは「難しい」。
内では父親の庇護の下にあり、外ではザルツブルク大司教の管理下に置かれ、おそらく途轍もないプレッシャーと不自由さの中で生きていたであろうモーツァルトが渾身のエネルギーを込めて創り出す音楽の所々には大人の様相をもった冷静で客観的な側面と子どものようなはじける瞬間が錯綜する。このバランスが絶妙。

ところで、今朝偶然NHK-FMをつけたら「名曲のたのしみ」(ラフマニノフの第24回、ルガンスキーの弾く「楽興の時」が身に沁みた)だった。先月亡くなった吉田秀和さんの声を聞いた。何だか不思議に気分だった。気のせいか滑舌もいまひとつで何だか元気がない。
それと「それではまた」とおっしゃる最後の言葉が突き刺さる。この4月に録音済みのもののようだが、あとどれくらい残っているのだろう。何だか・・・、聴き逃せない。

6 COMMENTS

雅之

おはようございます。

今更、モーツァルトの素晴らしさを「再発見」でもないでしょう、というのが私の気分です。

それにしても、岡本さんは「バランス」って言葉が好きですねぇ。

繰り返して言います。人間、「バランス」が取れてりゃ芸術は入りません。
美人の顔は左右対称ですか?

※踏み絵

モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番  グレン・グールド(p)ジュスキント&CBC響
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88-P%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC24%E7%95%AA-%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89-%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3/dp/B00005G8AW/ref=sr_1_6?s=music&ie=UTF8&qid=1339707325&sr=1-6

モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集  グレン・グールド(p)
http://www.amazon.co.jp/Complete-Piano-Sonatas-Mozart/dp/B0000028NT/ref=sr_1_4?s=music&ie=UTF8&qid=1339707674&sr=1-4

心にひっかかるものが無いなら、芸術は入りません。

真の意味で「バランス」が大切なのは、人間ではなく、電子回路など機械の設計です。

DNAの二重螺旋はなぜほとんどが右巻きなのでしょうか?
心臓はなぜ左にあるのでしょうか?

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。

>岡本さんは「バランス」って言葉が好きですねぇ。

好きというより、僕自身の永遠のテーマなんです。
ワークショップも合気道も、それを追究してるようなものです。

ただしおっしゃるように「バランス」が取れてりゃ芸術はいりません。同感です。

まぁ、漱石が言うように「四角から常識という角をとった三角の世界」に芸術家は属すものですからね。
しかし、四角より三角の方が安定すると思うんですがね、つまりその方がバランスがとれているんじゃなかろうかと・・・。

ご紹介のグールドのモーツァルトなど昔よく聴きましたが、あの時以上に今は「バランスがとれている」ようにも思えます。

あと、人間はそもそも不完全ですからね。だからこそ他人との協働でバランスをとって限りなく完全に近づけるというのがやっぱり生きているうえでのテーマだと思うのですが。
それと、モーツァルト「再発見」というのは言葉の綾でもありますが、ここのところ特に新鮮に聴けるのは少なくとも僕にとっては事実なのです。

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雅之

>だからこそ他人との協働でバランスをとって限りなく完全に近づけるというのがやっぱり生きているうえでのテーマだと思うのですが。

心底そう思うんだったら、やっぱり芸術はいらないです。

「バランス」とは建前、「藝術」とは本音(深層心理)。そうじゃありませんか?

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岡本 浩和

>雅之様

僕の持論ですが、人との協働で活きる側面と孤独に生きる側面とが人間には必要だと思います。
「バランス」は建前でなく、人と分かち合う時に大切な本音で、一方孤独を要するときに芸術が必要になってきます。
これですらバランスだと思いますが。
しかも、僕はもちろんひとりでもコンサートに行きますが、誰かと一緒に行くときはその芸術を分かち合うという「協働作業」をしたいと思うからです。3月にダスビのコンサートに行く際雅之さんをお誘いしたのも、その「分かち合い」が欲しかったわけですし、こうやって日々ブログにコメントをいただいてやりとりしているのもそういう理由だということです。しかも楽しいですし。拙ブログですが、立派な芸術作品だと僕は勝手に思っております(笑)。

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雅之

「好きか嫌いか」だけで音楽を評価するって、何と自分勝手で残酷なバランスでしょうね。

私は、そのことに強い罪悪感と嫌悪感があるんですよね。

孤独に生きる人間の側面だったら、他人を傷付けない高尚な趣味が、音楽の他にいっぱいあるじゃないかという気持ちを抑えることが、年々難しくなりつつあります。

やっぱ音楽だったら、「演奏する」と「聴く」が揃って初めて「バランス」かな。

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岡本 浩和

>雅之様

はい、おっしゃるとおりです。

>やっぱ音楽だったら、「演奏する」と「聴く」が揃って初めて「バランス」かな。

そこは・・・、痛いところです。

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