一挺のヴァイオリンやチェロのための音楽はあくまで自己を振り返り、ある時は自らへの戒め、そしてある時は自身へのご褒美として創作されたものである。一方、伴奏楽器、ピアノやチェンバロや、などが付随する作品は、あくまで他人との逢瀬、すなわちコミュニケーションを愉しむ創られたものなのではないか。そんなことをふと思った。
ケーテン時代にバッハによって紡ぎ出された数々の音楽はそのような様相を呈する。
少なくとも僕の印象では無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータや無伴奏チェロ組曲は峻厳で近寄りがたい神々しさを放っている。もちろん奏者の解釈によってそれらは全く違った音楽に変貌するのだが、それでもヴァイオリニストやチェリストが自らと対峙して、つまり自身の鏡として音楽を創出するという意味においては彼らの「人生」が浮き彫りになる。演奏者にとってはとても「怖い」作品群なのではなかろうか。
実際、先日人見記念講堂で聴いたヴェンゲーロフのパルティータ第2番ニ短調BWV1004は、いかにも今のヴェンゲーロフらしさを表出する音楽だった。深い呼吸と余裕のある音作りと。微動だにしない悠々たるテンポ、芯のしっかりした地に足の着いた堂々たる解釈。いかに彼が幸せであるのかが一辺にわかってしまうことと、人としても自信と確信に満ちているんだということが即座に理解できるもの。
ただし、音楽の解釈というものは人それぞれ好みがあるもので、おそらくああいうスタイルを求める人もいれば、終盤に向かって(例えば)アッチェレランドをかけていくようなもっと厳しい表現を良しとした人も聴衆の中にはいただろう(特にソロの場合は聴く者各人の趣味というか感性によって判断がまちまちになるのが面白い。それがまた記号化されたものを頼りに、しかもバッハの時代の頃はほとんど奏者の感性や力量に任されていた曖昧な(?)譜面から音楽を再生していくのだからなお面白い)。いろんな解釈が存在するものだ。
ということで、今夜はバッハのチェロ・ソナタを聴く。厳密にはヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタだが、現代の楽器で演奏し、これほどまでに互いを触発し、互いを受け容れ合い、そして見事に普遍的な作品として表現したコンビはこの人たち意外にいないのでは・・・、そんなことを考えた。
バッハの器楽作品は宗教的なものとは別の観点で作られているのだろうが、どの作品を聴いても「神が宿る」という印象は変わらない。とても人間が作り出した代物とは思えない精緻さと官能と。後年バッハは語る。
「私はとても勤勉でした。私のように勤勉だったら、誰だって私のようになれるでしょう」
もちろん天性のものもあったろう。しかし、彼のこの精密機器のような譜面、そして音楽は先天的なものだけで為せるものではない。幼少の頃からの大変な努力の賜物であり、その積み重ねの上に成り立っているものなのである。
その意味では極めて人間らしくありながら、それでいて宇宙的規模の視点で物事を見て、かつ考えられた優れた思考とバランス感覚を持った人だったのだ。
流れるように奏される美しくも甘い旋律の数々を耳にして、バッハの偉大さを再認識。
※珍しく録音データの表記がない。コピーライトが1985年だから84年頃の録音だろうか。とすると30年近い時を経ていることになるが、全く色褪せない・・・。