ムターのプロコフィエフ、レスピーギほかを聴いて思ふ

mutter_recital_2000意外に僕は無意識にプロコフィエフをぞんざいに扱っているのかも。
彼の革新的芸術手法に舌を巻くも、どこか没頭し切れない曖昧さがあるように感じるからか。生き方も亡命、突然の故国復帰など多様。作風も多角的に変化する。もちろんそれはソビエト連邦という国家体制の中にあって身を守るために対処せざるを得なかったことなのだけれど、ショスタコーヴィチの、どういう状況においてもあくまで自身の思想を貫き通そうとする確固たる姿勢(表面的には迎合する様相もあるけれど)と比べ生温い。いや、この言い方は違う。「生温い」などという中途半端な作品はひとつもないから。おそらくプロコフィエフは身と心をはっきり分かつことができた人で、どこにどんな風に身を置いても自身を誤魔化すことなく、感じたままを音化できる人だったんだ・・・。なるほど、その意味で「ずるい人」。

アンネ=ゾフィー・ムターの2000年に収録されたリサイタル盤が良い。1944年に作曲されたプロコフィエフのソナタ第2番を冒頭に置き、締め括りがレスピーギの1916年作のソナタ。そう、プロコフィエフのものが第2次大戦中の作品で、レスピーギのものは第1次大戦中に作曲されたもの。これらの音楽に血腥さはない。どちらかというといずれも平和で柔和な響きに溢れる。
そして、それでいて哀しい・・・。

アンネ=ゾフィー・ムター・リサイタル2000
・プロコフィエフ:ヴァイオリン・ソナタ第2番ニ長調作品94a
・クラム:4つの夜想曲(夜曲Ⅱ)
・ヴェーベルン:4つの小品作品7
・レスピーギ:ヴァイオリン・ソナタロ短調
アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
ランバート・オーキス(ピアノ)(2000.5Live)

それもそのはず、亡き夫、デトレフ・ヴンダーリヒに捧げられたレコーディングだということ。そのせいか、ジャケットの雰囲気も音楽の様相もモノトーン。
白眉はオットリーノ・レスピーギ。第2楽章アンダンテ・エスプレッシーヴォの限りなく透明な、何という美しい音楽。ムターのヴァイオリンが慟哭し、オーキスのピアノが寄り添うように支える。そして、時に伴奏の域を超え、共に泣くのだ。終楽章パッサカリアでは、動と静の対比が見事に表現される。ここでムターとオーキスはひとつになる。言葉にし難い極上の音色と響き。

間に挟まれた2つの作品は、現代音楽の旗手、ムターの独壇場!クラムの作品とヴェーベルンの作品はほとんど一体化しているよう。恐ろしいまでの凝縮力。もちろんクラムがヴェーベルンの影響下にあることは間違いないのだろうが、それにしても見事な流れ。
これらは2つの戦争を戦って死した者へのレクイエムか・・・。

そういえば・・・、プロコフィエフのソナタの豊饒で可憐なこと。ここでのムターは一際妖艶。凍てつくほどの寒さの中では、こういう温かい演奏が心に一層染みる。

 


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