僕はいつも思考をニュートラルに置くことを心掛けている。
何事も本当のところは「当人」にしかわからないから。
それに、先入観、思い込みというのは得てして外部からの情報のみに依るところが大きい。音楽の場合は特にそう。どんなものも実際に自分の耳で確認しないことには判断できない。それがたとえ「音の缶詰」であろうと。
朝比奈先生が亡くなってからブルックナーを聴く機会が減った。
僕の中で朝比奈隆とギュンター・ヴァントがブルックナー指揮者の最高峰で、2人が亡くなって打ち止めだとどこかで勝手に決めていたみたい。
30数年前に朝比奈指揮大阪フィル定期で第7交響曲を聴いて僕はブルックナーに開眼した。それくらいに衝撃的な演奏であり、音楽だった。以来、様々な音盤を聴き、コンサートにも通った。とはいえ、めくらめっぽう数撃てば中る的な聴き方をしたわけでなく、音楽評論家のガイダンスを「鵜呑みにして」ある一定の方向で聴き漁った。決してそれが間違っていたわけではないけれど、間違いなく先入観は植え付けられたと今になって思う。
ブルックナー開眼からまもなくブルックナーの方法はひとつだという評論を読んだ。そういうものかと信じ、例えばブルックナー的でないと評されたフルトヴェングラー盤についてもばっさりと一刀両断した。よって、彼のベートーヴェンやブラームスを聴くほど熱心には聴かなかった。そもそもそれが間違い。そこで鳴っているのは紛れもなくブルックナーの音楽なのだから。
当の作曲家本人が棒を振ったってそれが感動的な演奏になるとは限らない。十人十色。そう、方法はいくつもあり、決まった答などないのである。それこそが「再現芸術」というものの宿命であり、面白いところ。クラシック音楽を聴く醍醐味、音盤を蒐集する愉悦がそこにある。
長らく封印していたムラヴィンスキーのブルックナーを聴いてそんなことを考えた。
彼のブルックナーというのはほとんど話題にならないのでは?もちろん早い時点でレパートリーから除外された作品なのでそのことは仕方ない。しかし、旧い録音から楽章を追うごとに大変なパッションとエネルギーの放出が感じられるのも確か(もう少し音質が良ければ間違いなく座右の盤になるのに・・・)。
ブルックナーは「宇宙の鳴動」とか「大自然の逍遥」と表現される。見事な言い回し。言い得て妙だと思う。しかし、それは「人間臭さ」を否定することにもなる。あまりにパッショネートだとそれはブルックナー的でないと。
僕は今こそ思う。情熱と受難という両義性のあるパッションこそが実はブルックナーの本質なのではと。オルガニストであるブルックナーは教会の長い残響を想定しオルガンで作曲した。そして、彼は常に神を追い求めて音楽を創造した(未完の第9交響曲などは神に献呈されているほど)。宗教心と信仰心こそがブルックナーの砦。一方、プライベートでは彼はロリータ・コンプレックス(あまりに人間的過ぎる)。
神への信仰さえ忘れなければ、火傷しそうなほどに激情的で、刃物のような切れ味鋭い人間的な第8交響曲があってもいいのではないのか・・・。
ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ハース版)
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1959.6.30録音)
とはいえ、繰り返し何度も聴く気には確かにならない。
ムラヴィンスキーがある時期を境に演奏しなくなった理由もわかる。自分には向いていないと察したのだろう。それとも、あまりに熱が入り過ぎて心身が持たないと悟ったのか。
真相はわからないけれど、一期一会で聴くなら最高の方法がここにはある。
2年前の年末だったかN響定期でデュトワがショスタコの8番を取り上げるというので万難を排して駆けつける準備をしていましたが、仕事がたてこんで断念しました。
確か、岡本さんの記事でこの演奏記がしるされていたのを大変うらやんでいたのを思い出します
1960年のロンドン・ライブの8番の驚愕すべく凄演というのも、もどかしいムラヴィンスキー盤との出会いは、わたしの人生におけるエポックになってしまいました。
もはや人類史上にロシアが生み出した3人の超〃ド天才ドストエフスキー、ムラヴィンスキー、タルコフスキーはわたしの3人の神の位置にいる巨匠たちです
ちなみにドストエフスキーはわたしにとってはカラマーゾフ、罪罰より悪霊です
学生時代の三里塚闘争最終局面や末期セクト論争が学内で荒れていたころ、ニヒリストたちの末路が描かれていて、ここから限りないものを友人と共に学びました
>neoros2019様
はい、あのショスタコは凄かったです。
1960年のムラヴィンの第8番に匹敵する凄演だったのではと確信します。
>3人の超〃ド天才ドストエフスキー、ムラヴィンスキー、タルコフスキー
心底同意いたします。
>ドストエフスキーはわたしにとってはカラマーゾフ、罪罰より悪霊です
なるほど、「悪霊」ですか!
ドストエフスキーの深遠な世界を語るには僕はまだまだ役不足です。現在「カラマーゾフ」を米川訳で再読しておりますが、昔読んだ時より深く理解できます。近いうち「悪霊」も再読します。
ありがとうございます。