内側が「透けて見える」アンセルメのベートーヴェン

ピーター・センゲ氏が提唱する組織論に「学習する組織」がある。これからの時代に求められる組織のあり方として注目を浴びているが、複雑な環境下ではトップダウン型の組織でなく、中のひとりひとりが考え、実行する人にならなければいけないという考え方である。そしてこの「学習する組織」には5つの原則が必要だと彼は説く。
すなわち、自らを動かす力としての「個人マスタリー」と「共有ビジョン」、複雑性を理解する力としての「システム思考」、そして共創的に対話する力としての「メンタルモデル」と「チーム学習」がそれである。

特に、昨年末に「システム思考」という考え方に出逢い衝撃が走った。時間とともに変化する事象、そして存在するすべてがつながってひとつであるという思想が根本にあるが、これまで抽象的にしか説明し得なかった目の前に起こる問題を限りなく正確に「見える化」できる方法に僕は驚いた。我々はともすると短絡的に、対症療法的に問題に対峙する癖がついているが、いかに全体観を自分の内側に持つか、そして全体最適と部分最適のバランスをいかに取ることが重要であるかをあらためて思い知った。

一連の講座の中で、もうひとつ「メンタルモデル」という概念も再確認した。要は思考の(良い意味では)習慣、(悪い意味では)癖である。このメンタルモデルを内省し、変化に合わせて主体的に変化させていくことを常とせよ、というのである。

しかしながら、この「メンタルモデル」の問題は難しい。人間、他人のことはよく見えても自分のこととなるとさっぱり。僕などもまさにそう。ゆえに、「内省」ということなのだろうけれど。

どうしてこういう話題からスタートしたかというと、内々で最近話題になったアンセルメ&スイス・ロマンド管のベートーヴェンを聴いて思うところがあったから。

クラシック音楽に限らずだと思うが、出会ったころに誰の音楽をよく聴いたかがその後の愛好人生にものすごく影響を与える。僕の場合は幸か不幸かフルトヴェングラーだった。よって必然的に独墺系の作品ばかりを耳にすることになる。一方、フランス物などは特に苦手だった(ロシア物もごく限られた名曲と言われるものにしか聴かなかった)。ラヴェルやドビュッシーあたりは申し訳程度にかじったが、ほとんど真面に聴き込まなかった。
そうなると、当然エルネスト・アンセルメはストライク・ゾーンに入らない。ましてやアンセルメのベートーヴェンなんて馬鹿にして(聴かずして・・・恥)、音盤を意識することすらなかった。
それから数十年。「思い込み」というのは恐ろしいものである。可能性を奪ってしまう。

ブログを書き始めて5年半が経過するが、たくさんの方々にコメントをいただき、ご教示いただくことで随分考え方が変わった。
そう、誰のどんな演奏も一期一会であり、それぞれに思い入れを持つ方がいらっしゃり、無駄なものはひとつもないということ(これはジャンル問わず)。この「気づき」が最も大きい。いかに偏見を捨てるか、中庸で聴き、その存在意義を見つけるか、そんな思いですべての音楽に触れようと。

ベートーヴェン:
・交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」(1959.4録音)
・バレエ音楽「プロメテウスの創造物」序曲作品43(1960.1録音)
・歌劇「フィデリオ」序曲作品72c(1960.1録音)
・「レオノーレ」序曲第2番作品72a(1960.1録音)
・「レオノーレ」序曲第3番作品72b(1958.5録音)
・大フーガ変ロ長調作品133(ワインガルトナー編曲)(1959.5録音)
ジョーン・サザーランド(ソプラノ)
ノーマ・プロクター(メゾ・ソプラノ)
アントン・デルモータ(テノール)
アルノルト・ファン・ミル(バス)
ブラッシュ合唱団
ヴォー国民協会青年合唱団
エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団

アンセルメの内側には熱い奔流がたぎる。しかし、外側はいかにも冷静、いや、場合によっては冷徹な印象すら受ける。何だろう、このベートーヴェンは・・・。今風にいうと、ピリオド楽器的なアプローチで見通しが良い分、その内側が「透けて見える」のである。
第9のアダージョは一切のもたれなく、適正な速さで美しかった。フィナーレは歌唱に多少の違和感があったけれど、それでもコーダの独特の初めて聴いたような表現は新鮮だった。
とはいえ、実はこの2枚組セットの「肝」は実に管弦楽曲集の方にある。
まずは「プロメテウス」序曲。この音楽がこんな風に僕の心を捕えたことはなかったかも。ここには既に「レオノーレ」の息吹が聴いてとれる。
1800年にこの作品は生み出された。ということは「生まれ変わり」前。ハイドンの「天地創造」の影響を受けているそうだから、「レオノーレ」との絡みも考えるとやっぱり僕的にはメイスンの影を感じざるを得ない(しつこいか・・・笑)。あの「遺書」の存在がますます何だったのか気になる。
「レオノーレ」序曲も出色。特に第2番!!
冒頭の和音の後に来るティンパニの一撃、それも2度。この辺りは「エロイカ」の最初の2つの和音を思い出させる。そして、荒々しいながら、フォルテとピアノのコントラスト!いずれも第3番にはない特徴だが、やっぱりメイスンを想起させる。この音楽にこんなにも惹かれたのはアンセルメが最初かも。
さらには「大フーガ」!ただし、記事が長くなり過ぎるので今日のところは止める。アンセルメのベートーヴェンについてはいずれまた書く機会があるだろう。


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