フルトヴェングラーのベートーヴェン

ラルゴ楽章の古びた音から懐かしさが込み上げる。
特にピアノのくぐもった、鋭角のとれた音、それはもちろん録音状態によることなのだけれど、かえってそのことがこの演奏に不思議なシンパシーを覚えさせる。おそらく全体の解釈のイニシアティブはフルトヴェングラーにある。その与えてもらった大きな器の中で自由奔放を心掛けながら、巨匠に対する尊敬の念を込めて歌うエッシュバッヒャーのピアニズム。ロンド楽章は真に安定感あり。ここにはフルトヴェングラーが最晩年に演奏したモーツァルトのK.466にも似た「凄み」がある。自然体で音楽そのものしか感じさせない「凄み」が。あまり言及されることはないように思うが、僕にとっては永遠のベートーヴェン。

それと、何より冒頭に収められた序曲たちのひとつひとつが最上の出来で、見事な光彩を放つ。「コリオラン」序曲はいつものフルトヴェングラー節満載で、こうでなくてはならない。さらに、「エグモント」序曲。最初の和音の、永久に続くかのように引き伸ばされる様、ここだけで聴く者は大変な深層に引き込まれ、一瞬間「魔界」を覗き見るかのような錯覚にとらわれる。そして主題提示の時の光が差し込む様子・・・。この自信に満ちた足取り!
特筆すべきは「レオノーレ」序曲第2番。音は決して良いとは言えない。しかし、1950年のザルツブルク音楽祭における実況録音の第3番に負けずとも劣らない、壮絶なドラマがここにある。歌劇「レオノーレ」改訂稿を公に問うた、1806年当時のベートーヴェンの「魂」がフルトヴェングラーの棒に乗り移るかの如く「挑戦と革新」をもって響く。

ベートーヴェン:
・「コリオラン」序曲作品62(1951.10.29Live)
・劇音楽「エグモント」序曲作品84(1953.9.4Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
・「レオノーレ」序曲第2番作品72(1947.6.9Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団
・ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15(1947.8.27Live)
アドリアン・エッシュバッヒャー(ピアノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団

日本ではほとんど話題になっていないように思うが、エリーザベト・フルトヴェングラー氏が亡くなられたらしい(ご冥福をお祈りいたします)。何と享年102歳。まだご健在だったのかと驚きを隠せないが、巨匠の死から60年近く経過する中、最近まで世界各地で講演や執筆などでお忙しく活動されていたことはよく知られていた。
エリーザベト未亡人といえば、僕の場合即座に思い出すのはフルトヴェングラー没後30年の時(1984年)、大丸東京店でおそらく初めての展示会が開催され、それにあわせてご子息のアンドレアス氏と来日、講演されたこと。あの時は学生だったこともあったのか、あるいはほかに用事があったのか、チケットがとれなかったのか理由はまったく覚えていないのだけれど、ともかく行けなかった。それでもいまだに脳裏に焼き付いて離れないのが、大丸の展示会での見たフルトヴェングラーの燕尾服!思わずその背の高さに吃驚仰天(笑)。
あの時からさらに30年の時を経ていることが俄かには信じられない(その時の様子のほか、小石忠男氏、吉田秀和氏など今は亡き懐かしい執筆陣によるフルトヴェングラー論が収められた「フルトヴェングラー時空を超えた不滅の名指揮者」というレコ芸別冊を久しぶりに読み返してみた。ちょうどフルトヴェングラーの録音が初めてCD化された時と重なるのでそのことも誌上を賑わせている)。

音の悪さを越えてフルトヴェングラーの録音は不滅だと僕は思う。現代ではもちろんもっと音質の良い素晴らしい演奏もあるが、それでもフルトヴェングラーの録音を繙くと、音楽創造というものの原点を発見する。特に、ベートーヴェン演奏にかけてその想いを強くする(それにしてもシルヴェストリのEMI録音や”Great Conductors”などを聴くにつけ、彼がもうあと5年長生きしてくれていたらと・・・、残念でならない)。

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