灼熱の「フィデリオ」!

フロレスタンを演ずるユリウス・パツァークの第2幕冒頭、牢獄の場面の何とも女性的な名唱!!そして、そこに重なるレオノーレ(フィデリオ)を演ずるキルステン・フラグスタートの英雄的で勇気に満ちた男性的な歌よ!!

この小市民的な実直な世話物という、今日見るような形式を備えたこの小序曲は、徹頭徹尾、1814年代のベートーヴェンの作曲であり、彼はこれを改作するに当たっては、この作品を当時の人々に受け入れやすいものにしようという意図をもって手心を加えたのでした。この改作の偉大な功績は否定しえないのはもちろんですが、ただこの点においてはそれは当時の演劇の好みに妥協したことを物語っています。しかもそれはかつてベートーヴェン自身が書いた作品そのものを犠牲にしてなのです。

上記は、フルトヴェングラーが1942年に著した「フィデリオの序曲~文献としての真実の価値~(『音と言葉』所収)」からの引用である。彼が言うように、ベートーヴェンのこの改作行為は「妥協」の産物であったことが、「レオノーレ」の第1稿や第2稿と比較視聴し、「フィデリオ」というオペラのことを深く追究すればするほどよく理解できる。もちろん「フィデリオ」最終決定稿は優れた作品だ(2幕仕立てに改作したことでますます「魔笛」と双生児的な劇になったのでは?)。それでもやはり、作曲者の「最初のインスピレーション」こそが真実を物語るものだろうから、「レオノーレ」第1稿こそが楽聖の「言葉」なのだと僕などは考える(しかし、結論めいたことを示唆するのは今の時点では止そう。まだまだ研究、聴き込み、視聴不足だから)。

さらに、同じ論文の中でフルトヴェングラーの言葉。
「レオノーレ」序曲が意味を持つことになり、同時にそれが作劇法から見た機能を充分に発揮する適当な場所は、一つだけ立派に存在しています。―もっとも、それは本来ベートーヴェンによって考えられた場所とは違うかもしれませんが―すなわち「牢獄の場」のあとのところです。この場所に置けば、―それは同時にグスタフ・マーラーによって創られたウィーンの伝統にも相応しくぴったりしたものになるし、―劇の内部においても『神々の黄昏』の中のジークフリートの死のあとの葬送行進曲と同じような意味を持つことになります。これは過ぎ去った出来事を追懐することになり、讃歌ともなります。

確かに、第2幕フィナーレ前の「レオノーレ」序曲の威力は絶大だ。しかも、フルトヴェングラーの演奏ともなると、彼自身の言葉通り空前絶後の追懐と讃歌になるのだから、このシーンをもはや想像するだけで鳥肌が立つほど。

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」
キルステン・フラグスタート(レオノーレ、ソプラノ)
ユリウス・パツァーク(フロレスタン、テノール)
パウル・シェフラー(ドン・ピツァロ、バリトン)
ハンス・ブラウン(ドン・フェルナンド、バリトン)
ヨーゼフ・グラインドル(ロッコ、バス)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(マルツェリーネ、ソプラノ)
アントン・デルモータ(ヤキーノ、テノール)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1950.8.5Live)

1948年から3年連続してザルツブルク音楽祭に登場したフルトヴェングラーによる「フィデリオ」の実況録音。この舞台を実際に観たマイケル・マーカス氏の言葉が残されているが、「レオノーレ」序曲第3番への聴衆の拍手は20分も鳴り止むことがなかったそうだ。60年以上前の旧い録音を聴いてみても、演奏の異様なテンションとそれに熱狂するオーディエンスの歓喜が伝わってくる。ともかくこの1950年の「フィデリオ」は言葉にならないほどすごい。

ちなみに、僕の手元には2種の音盤がある。
ひとつは20年ほど前にEMI Classicsからリリースされたいわゆる正規盤。もうひとつが2004年にオーパス蔵からリリースされた米BJRのLP原盤の復刻CD。
まるで音の質が違う。確かにEMI盤は音揺れや歪も少なく聴きやすいが、残念ながら音が軽く、充分に心に迫って来ない。一方のアナログ復刻の方は驚くべきエネルギーを放出する。実際に原盤を提供された末廣輝男氏のライナーノート通り、「ズシンと響くようなバス音に特徴があり、やや暗めの音」が聴く者を当時の祝祭劇場の座席に誘ってくれる。まるで目の前で演じられているかのような錯覚を起こさせるほど。

しつこいが、繰り返す。フルトヴェングラーによる1950年の「フィデリオ」上演記録はベートーヴェンを愛する者は座右の盤にすべし。

当然フルトヴェングラーは「フィデリオ」の真の意味を理解していただろう。
先の論文の締めくくりを要約すると次のようになる(昔はそれほど違和感を持たなかったのだけれど、芳賀檀氏の翻訳は非常にわかりづらい。今後もっと良い訳が出ることを期待しよう)。

1814年当時、改作の注文をした周囲の「わかっていない」人々のためにベートーヴェンが生み出した「フィデリオ」より、いかに「レオノーレ」当時のベートーヴェンの精神を再生できるかということ、そして、単に歴史的資料を重視するのではなく、未来を指し示すベートーヴェンの本質(真実)をいかにつかみとるかが鍵になるのだと。

フルトヴェングラーの58回目の命日に・・・。


4 COMMENTS

アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » フルトヴェングラーのベートーヴェン

[…] それと、何より冒頭に収められた序曲たちのひとつひとつが最上の出来で、見事な光彩を放つ。「コリオラン」序曲はいつものフルトヴェングラー節満載で、こうでなくてはならない。さらに、「エグモント」序曲。最初の和音の、永久に続くかのように引き伸ばされる様、ここだけで聴く者は大変な深層に引き込まれ、一瞬間「魔界」を覗き見るかのような錯覚にとらわれる。そして主題提示の時の光が差し込む様子・・・。この自信に満ちた足取り! 特筆すべきは「レオノーレ」序曲第2番。音は決して良いとは言えない。しかし、1950年のザルツブルク音楽祭における実況録音の第3番に負けずとも劣らない、壮絶なドラマがここにある。歌劇「レオノーレ」改訂稿を公に問うた、1806年当時のベートーヴェンの「魂」がフルトヴェングラーの棒に乗り移るかの如く「挑戦と革新」をもって響く。 […]

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岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] 枯れた侘び寂のト長調協奏曲、そして変ホ長調協奏曲。 音楽はその人柄を見事に反映する。 バックハウスのベートーヴェンにあるのは、老境にしか見えない「一元」。 フルトヴェングラーの「フィデリオ」(1950Live)に象徴されるように、ベートーヴェンは両性具有者であり、すべてがひとつであることを悟った人なのだと思わせる境地がここにもあった。 […]

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