Karajan:Live in Osaka 1984

演奏終了直後のカラヤンの何とも満足気な微笑が印象的。そして、同時に湧き起こる聴衆の怒涛のような拍手喝采。それらは演奏のもの凄さを物語る。
カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の1984年伝説的来日公演。
カラヤンという人がどれほど音楽的才能に優れていたかが如実に伝わる演奏。例によって不自然な映像処理が感興を削ぐが、ベルリン・フィルの抜群の機動力と秀逸なテクニックを武器に古今の大管弦楽曲が驚くべき精緻な音響で蘇る。目くるめく官能の世界を現出し、それぞれの音楽がこれほどまでの「魔力」を秘めていたのかと驚きを隠せない。完璧。これこそ最晩年のカラヤンの至芸。

興味深いのはそのプログラム。
音楽というものは、誰が何と弁明しようと政(まつりごと)と切り離せるものではないことをここのところ痛感する。いや、どんなものもそうだが、すべては単体で成立しない。そこにはつながりがあり、それぞれが依存し合って「そのもの」の存在がある。

例えば、リヒャルト・シュトラウス。ナチス政権下のドイツ第三帝国において帝国音楽院総裁の地位にあった彼については、戦後すぐから今に至るまで物議が醸されている。本人が意識しようがしまいが、あるいは政治と音楽とは別だと主張しようが、やっぱり時代背景、そして国家というバックボーン抜きにして創造物のことは語れない(とここのところ僕は考えるようになった)。ただし彼の創造行為、そのこと自体が「是か非か」を問いたいわけではない。そんなことは誰にも裁ける問題ではないと思うから。しかしながら、事実としてそうだという認識は忘れてはならないということ。
いずれにせよそんなシュトラウスが20代の頃に作曲した出世作「ドン・ファン」(1888年作)が本公演では採り上げられる。

あるいは、一時期親ファシストだったオットリーノ・レスピーギ。20世紀イタリアの誇る天才。決して深入りはしなかったそうだが(果たしてそれはどうか?)、少なくとも彼の作品はファシスト党には評価が高かった。いわゆる「ローマ三部作」の中でも最もファシストに近づいた時期に書かれた「ローマの祭」(1928年作)をカラヤンは生涯採り上げることはなかったが、この公演ではその4年前の作である「ローマの松」(1924年作)を採り上げる。これが本当に見事。おそらく当日ザ・シンフォニーホールの聴衆はその煌びやかでありながら決してうるさくならず、しかも肺腑をえぐるような金管群と打楽器群の響きに卒倒したのではなかろうか。

カラヤン・ライヴ・イン・大阪1984
・モーツァルト:ディヴェルティメント第15番変ロ長調K.287(271H)
・R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」作品20
・レスピーギ:交響詩「ローマの松」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1984.10.18Live)

第二次大戦の枢軸国の音楽を、かつてナチス党員だったカラヤンが40年後に遠い日本の地で棒を振り、その繊細で圧倒的な音楽に聴衆が熱狂する。何だか漫画みたいだが事実。確かに政治と音楽とは事実として切り離せないものだが、あるいはその人の過去は決して変えることはできないものだが、そういうことそのものがそもそも瑣末なことだと理解せざるを得ない。そう、素晴らしい音楽の前ではすべてがひれ伏すのだ。
そんな一期一会のドラマに立ち会いたかったと心底無念。
とはいえ、当時20歳の僕がカラヤンの音楽を心から堪能できたかどうかは不明・・・(笑)。

ちなみに、1曲目のモーツァルトのディヴェルティメントK.287(271H)。この曲はザルツブルク時代最後期である1777年6月頃の作曲とみられている。この後、彼は宮廷音楽家の職を辞し、新天地を求めてマンハイムやパリへの1年近くにも及ぶ旅に出る。作品そのものはザルツブルクのロードゥロン伯爵夫人の依頼によるものだが、当時のモーツァルトは大司教コロレドと不和に陥っており、明快な音楽の裏側にやるせない鬱積を感じるのは僕だけだろうか。音楽家とは所詮雇われ人。ここにも何やら政治の世界の表と裏が見え隠れする。


4 COMMENTS

neoros2019

しょっちゅう、考えていることですが、この今「カラヤン」の評価って難しいですね
嫌う人は徹底的に嫌い、カラヤンのマタイ、トリスタン、マーラー、ブルックナー、ベートーヴェン、モーツァルトの各レパートリーに演奏・録音がハナからなかったように扱われている場合が多く、ひどいなと思いつつその心情が意外とわからないでもないというのが本心です
私の少年期からの憧れであったと同時に、氏については音楽批評、批判の対象であったことも否めません
レコード・CDジャケットの顔写真に写るナルシスティックな自己描写へのこだわりに、辟易してしまうのも現実です
昨日ワーグナーのトリスタンの第3幕の音の洪水に、心地よく身を浸しながらも、氏については様々な思いが去来してしまいます

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岡本 浩和

>neoros2019様
おっしゃりたいことよくわかります。
僕も本当に長い間「アンチ」でした。しかしながら、若い頃は彼に対する様々な否定的見解を鵜呑みにした結果、聴こうと思えば聴けた実演を逃したことが一大痛恨事なのです。少なくとも自分の耳でしっかり確かめてから判断をしたかったと。少なくともこの大阪ライブを観てそう感じます。
ただし、楽曲の相性はあると思います。リヒャルト・シュトラウスに関しては音盤からでも十分素晴らしいものだと思います。あるいはヴェルディやプッチーニなどのイタリア・オペラについても僕は好きです。あ、「パルジファル」も意外に、というかとても好きです。一方、ベートーヴェンやブルックナーはダメですね。
「トリスタン」ですか!!カラヤン向きの、というかカラヤンの味付け、これはこれでありです。
うーん、確かに複雑な様々な想いが去来します。

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ふみ

おー、バルビローリに引き続き早速ご覧になって頂いてありがとうございます。

ローマの松は、色彩感豊かなデュトワ、イタリア的テンションのガッティ、遠くまで突き抜けるような清涼感溢れるムーティ、のような本流がある中でやはり僕は圧倒的にカラヤン盤が好きです。というより、この演奏は僕の中ではカラヤンの演奏群の中で最高位のです。技術的な綻びは散見されますが、機能美の極致ですよね。
なんか、カラヤン/BPOの波乱万丈の歴史を思うと、身体の動かないカラヤンの指揮振りと音の洪水に涙がちょちょぎれます。
カラヤンは別に色眼鏡を掛けず普通に聴けば、良いものもあれば、悪いものもある、といったように何も他の指揮者と変わらないと思いますけどねぇ。

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岡本 浩和

>ふみ君
>身体の動かないカラヤンの指揮振りと音の洪水に涙がちょちょぎれます。
こういうタイプの指揮者は「動かなくなって」から恐ろしいほどの名演奏を繰り広げるものだと思います。
確かに機能美の極致!

>何も他の指揮者と変わらないと思いますけどねぇ。
いや、やっぱりオンタイムのときはそれこそフリークとアンチの両極端だったからね。
「憎まれ役」になっていたということはそれだけ実力もあったということなんだけどね。
何せ「帝王」という綽名が嫌だ・・・。(笑)

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