Sonny Rollins:The Solo Album

サックス1本だけの音楽というのはどうにも滑稽に感じた。
実演でならともかく(いや、実演ですら辛いか?)、昔、初めて聴いた時は1時間近くにも及ぶこの音盤に怖気づいてしまってついぞ最後まで聴けたことがなかった。
音楽というのはそもそも合奏が主体ではないのか?
独りで奏でるそれは一種マスターベーション的なものでないのか?
いやいや、もしそうだとするなら、ピアノの独奏というのはどう説明する?あるいはバッハの無伴奏ものについては?
確かに。19世紀の芸術家たちは、バッハのかの音楽たちを未完成品と見做し、あえて付加するべく伴奏部を作曲したりもした。しかし、それらは今になってみるといずれも無用の長物という感が否めない。創造者に降って湧いたインスピレーションはそもそも何もいじらず、解釈しない方が良い。演奏者はただ感性の赴くままに、しかし忠実に再現すれば良い、それだけだと僕は思った。

そう考えたとき、この演奏の(音盤の)価値が腑に落ちた。その心構えであらためて耳にした時、感動した。奏者の登場から、途中何度かの拍手を挟み、延々と即興演奏が繰り広げられる。時間の経過とともに異様な熱を帯びてゆくサックス・プレイ。そのまま場の空気さえ軽々と飲み込んでしまい、いつの間にかブロウするサックスの音と、心も身体もひとつになってゆく。驚くべき快感・・・。

ニューヨークの近代美術館における実況録音。
演奏するのは、ソニー・ロリンズその人。

Sonny Rollins:The Solo Album(1985.7.19Live)

Personnel
Sonny Rollins (ts)

何より聴衆のお行儀良さ。ほとんど静寂の中で息を殺しロリンズの音に集中する様。その一方で、いよいよコーダというタイミングで誰からともなく拍手が起き、それが一気に全体に広がる様(この拍手の音を聴くと、当日のこの場に居合わせる聴衆の数はそれほど多くなさそうだ)。なるほど、人々は感極まっているようだ。確かに、サックスの巨人奏者のたった独りでのインプロヴィゼーションが目の前で繰り広げられているのだから、そのことは不思議でない。場合によっては失禁者もいたのかも(笑)。

むき出しの、赤裸々な音が溢れ出るかと思いきや、はたまたリラックスした静寂に満ちた音が流れ出る。はたと思った。独りか、と。相当なプレッシャーの中でこの演奏は行われているはずにもかかわらず、ここには見事に「緊張と弛緩」が入れ代わり立ち代わり起こっているのだ。そして、いつの間にかまるで仙人であるかのように「気」までもが消され、ただひたすらサックスの音が伸び、拡がる。
それと、幾度かの中断はあるが、ほとんど休みなく吹きまくっているということは・・・、ロリンズは大変な肺活量の持ち主だ(当たり前か)。それこそ呼吸の深さというのは人間の心身に最も影響を与える要素の一つだから、まさに「音楽をする」ことによって人々に喜びを与えると同時にロリンズは自身をも生き永らえさせているというか。これこそ「自律の鏡」。そうわかって聴く”Soloscope”は実に感動的な音楽。

ところで、どうして僕がこの演奏を苦手に感じたのか、今頃わかった。
鵞鳥か何かわからないけれど、鳥の鳴き声のように聞こえるから(木管にせよ金管にせよこの種の楽器はよく考えると鳥の声だ)。要は、僕は子どもの頃から鳥が嫌いなんだ。ヒッチコックの「鳥」を思い出して寒気がする・・・(笑)。

 


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