過ぎたるは及ばざるが如し

池田満寿夫のコラージュをジャケットに設えたマイルス・デイヴィスのアルバム。
日本で編集されたという内容充実した素敵な音盤。こういうものを聴かされると、マイルスの全盛期はやっぱり”Kind Of Blue”の前夜だったのではないかという思いが強くなる。
何より新鮮で、初々しさと勢いが同居する。やりたいことをやりたいようにやり、かつ芸術的には相当に高いレベルに達する。アーティストは誰しもそういう域を目指すが、そうなる人は少ない。

トランペットのミュート音は機械的な音の割には人間の心の機微までも細かく表現する。
何というのか、マイルスの悠々たる気配に完全に支配され、音楽がそれだけで活気づくのである。マイルス、コルトレーン&キャノンボールというフロント陣の軽快さに対して、リズム隊の強靭さと重心の低さよ。もはやこのセクステットはこの段階で完成していたのだ。とても寄せ集めとは思えない完成度。

Miles Davis:1958 Miles(1958.5.26録音)

Personnel
Miles Davis (trumpet)
John Coltrane (tenor sax)
Julian “Cannonball” Adderley (alto sax)
Bill Evans (piano)
Red Garland (piano)
Paul Chambers (bass)
Jimmy Cobb (drums)
“Philly” Joe Jones (drums)

1曲目”On Green Dolphin Street”から虜にさせられる。マイルスからコルトレーン、エヴァンスと受け継がれるソロの荘厳さと美しさよ。大袈裟かもしれぬが、ここには本当に「自由」がある。そしてその鍵を握るのが実にBill Evans。マイルスのバンドにEvansが加入したことですべてが変わったと言ってもいいくらいなのでは。それほどエヴァンスのピアノは素晴らしく、マイルスにとってピアニストはポイントだったんだと確信する(キース・ジャレット然り、チック・コリアもハービー・ハンコックも)。鋼鉄のピアノが唸り、囁く。

本日、第4回システム思考ワークショップ敢行。大いに気づきあり。
ひとつ、人間の作るシステム(しくみ)には必ず欠陥、問題が存在するということ。全体観でもってそのことが認識できれば大抵のことは無事にクリアできるのではないのか?
絶対なるは神のみ。(なぜ本作が正式にリリースされなかったのか不思議なところだが、そのあたりもまた人間のなせる技であり、興味深いところなり)

※池田満寿夫の芸術は本筋からはなかなか評価されなかったが、ある意味マイルスに近いものを僕は感じる。彼は才能があり過ぎた。「その時代」にあっては何事も過ぎたるは及ばざるが如しなのかな・・・。


6 COMMENTS

雅之

こんばんは。

>マイルスの全盛期はやっぱり”Kind Of Blue”の前夜だったのではないかという思いが強くなる。
>もはやこのセクステットはこの段階で完成していたのだ。

晩年のマイルスがその言葉を聞いたら、きっと一笑に付したでしょうね。
彼のアーティストとしての生き方の、好き嫌いを超えた意味深さや重みは、一定の評価が確立した若き日の”Kind Of Blue”より後にあるのだと、現在の私は信じて疑いません。

何故って? 何故なら、人生如何に生きるかで真に大切なのは、過ぎし日々の若かった過去ではなくて、40〜50代からだと、今の私には信じる必要があるからです。その価値観が認められないなら、勉強し始めたばかりのジャズとは、もう金輪際縁を切ってもいいかなとさえ思い始めています(ちょっと大袈裟か・・・笑)。

夏目漱石 最晩年(49歳)の手紙(芥川龍之介・久米正雄あて)
 
 大正5年8月24日(木)午後6時─7時 牛込區早稻田南町七番地より
  千葉縣一ノ宮町一ノ宮館 芥川龍之介・久米正雄へ

・・・・・・君らの手紙があまりに溌溂としているので、
無精の僕ももう一度君らに向かって何かいいたくなったのです。
いわば君らの若々しい青春の気が、老人の僕を若返らせたのです。
・・・・・・・(中略)

・・・・・・牛になる事はどうしても必要です。
吾々はとかく馬になりたがるが、
牛には中々なりきれないです。
僕のような老猾(ろうかつ)なものでも、
只今(ただいま)牛と馬とつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。
 
あせっては不可(いけ)ません。
頭を悪くしては不可(いけ)ません。
根気づくでお出でなさい。

世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、
火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉れません。

うんうん死ぬ迄押すのです。
それ丈(だけ)です。
決して相手を拵(こし)らへてそれを押しちゃ不可ません。
相手はいくらでも後から後からと出てきます。
そうして我々を悩ませます。
牛は超然として押して行くのです。
何を押すかと聞くなら申します。
人間を押すのです。
文士を押すのではありません。

是から湯に入ります。
     八月二十四日  夏目金之助
   芥川 龍之介 樣
   久 米 正 雄 樣
http://www.geocities.jp/sybrma/202sousekinotegami.html

>絶対なるは神のみ。

いかなる「絶対なる神」も、
創りたもうたのは、じつは人間なのです
(これ、仏教徒の中では常識)。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
おっしゃりたい趣旨理解いたします。
しかし、30代に完成していたのではというのは僕の正直な感想であります。
で、マイルスはその後何をしたか?自己批判による自己破壊。
破壊こそは創造でもあります。
破壊と創造を繰り返しマイルスはマイルスになっていったんだと思います。

>何故なら、人生如何に生きるかで真に大切なのは、過ぎし日々の若かった過去ではなくて、40〜50代からだと、今の私には信じる必要があるから

それはもちろん僕もそうです。過去の積み重ね、失敗も成功もいろいろあってそして自己批判があって、今があります。
漱石が馬ではなく牛にならんとするのは老練の叡智でしょうが、若者に対する忠告という形を借りた自己批判でもあるように思えます。そうやって自らを葬りあらたな未来を築こうとする。この時点で彼はまさかまもなく死を迎えるとは思っていなかったのではないでしょうか?

>いかなる「絶対なる神」も、
創りたもうたのは、じつは人間なのです

失礼しました。言い回しが間違っておりました。絶対なのは大宇宙であり、大自然だと言いたかったわけです。
いわゆる「八百万」ということでしょうか。

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雅之

「完成」は、クラシック的な価値観で、ジャズの精神ではないと思います。

レコード・マニアのジャズ・ファンは、その言葉を使う時点で、すでに演奏家側の意識とはズレているんだと思います。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

>「完成」は、クラシック的な価値観で、ジャズの精神ではないと思います。

確かに!!
しかし、18世紀頃はクラシックも「完成」という概念はなかったかもですね。
というか、よく考えるとどんなものにもそういうものはないんでしょうね。

ありがとうございます。

返信する
雅之

現役のアーティストにとっての「完成」とは、「見切る」と同義語。

晩年の漱石も、過去のどの傑作をも「完成した」と満足できていなかったのでしょう。
だから未完の「明暗」で、更に高い境地を死ぬまで目指したのでしょう。
その「見果てぬ夢」こそが「芸術家魂」そのもので、私は痺れるのです。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

>現役のアーティストにとっての「完成」とは、「見切る」と同義語。
なるほど!
終わりはないですね。
芸術に限らず、どんな仕事もそうだと思います。

返信する

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