ショルティの「さまよえるオランダ人」を聴いて思ふ

「女性の純愛によって救済される」というワーグナー作品に一貫して通底するテーマというのは、ヴェーヌスブルク(官能の世界)的に言うと、男の勝手な妄想ということで片づけられるが、一方、ヴァルトブルク(精神の世界)的に解釈すると、やはり「(男性の中にもある)女性性」というものが広く普く人類を救うのだということを僕たちに知らしめようとする壮大な思想である。ワーグナーの場合、顕在意識ではあくまで女性に対する独断的欲求だったと思うのだが、潜在的に「わかっていただろう」ことがどの作品にも感じられる。芸術的天才というのはやはり「上」とつながっていて、人類にメッセージを伝える媒介なんだと再認識する次第。

「もどってきたアミ」の中の一文を思い出した。

きみたちは、もうとても重大な、深遠な変化が、近づいているということを知らなければならない。・・・(中略)・・・それからまた、宇宙の生命を動かしみちびいているのは、創造者の精神の力であり、それはすべて愛であるということも理解しなくてはならない。もしきみたちが愛にしたがって生きていないとしたら、宇宙のあるべき方向に反して行動していることになる。・・・(中略)・・・
だから、われわれはきみたちのすべての国の、できるかぎり多くのひとたちに正しい教えとみちびきの霊感をメッセージとして送っている。・・・(中略)・・・
文学作品や音楽、映画やそのほかいろいろな文化的表現にも、インスピレーションをあたえている。メッセージの普及に役立てられるものなら、なんでも利用している。これは意識変革のためのひとつの愛の種であり、”大きな出会い”のための準備でもあるんだ。
P117-119

「パルジファル」の場合。この作品はワーグナー晩年の「再生論」に基づくものだ。山崎太郎氏の「作品に刻印されたワーグナー晩年の思想」(音楽之友社編スタンダード・オペラ鑑賞ブック)にとても興味深い箇所があったので引用する。

ワーグナーは現代の科学や資本主義経済をはじめとする物質文明を徹底的に批判する。その根底にあるのは、肉食によって獰猛な獣の地を自らの内に取り込んだ人類が、侵略と殺戮を繰り返すことによって、自分たちばかりか自然のあるべき姿を破壊し、現代の退廃にまで至ったとする歴史観だ。退廃からの脱出と人類の再生のために、ワーグナーは宗教的感情の大切さを強調する。しかし、宗教も人間が堕落していった過程を映し出すように、退廃への道を歩んだ。キリスト教は原始宗教の素朴な信仰を失って、典礼や装飾など様々な夾雑物が加わった上、国家などの政治機構に組み入れられて、本来の機能を麻痺させている。そこで、芸術が自らのうちに宗教的要素を取り込み、人類救済という宗教の使命を受け継ぐことになるのだ。
P258

有無を言わせぬ真理がここにある。さらに、山崎氏の小論に引用されていたワーグナー自身の著作より。

私たちは感覚に欺かれて千変万化する多様性や差異に目を奪われ、生きとし生けるものの一体性を見失っている。・・・婆羅門が私たちに、この生命ある世界における多彩を極めた現象を「汝はそれなり!」と意味づけて示した時、私たちの意識が―私たちの周りにいる生物を殺すことは、自らの肉を切り裂き、貪り啖う所業に等しいのだという意識が喚び覚まされたのだった。ワーグナー「宗教と芸術」
P259

これこそ先見、そして智慧!!

そして、「タンホイザー」の場合。鶴間圭氏の「ワーグナーの暗号メッセージを解読する」という小論(音楽之友社編スタンダード・オペラ鑑賞ブックP42)を読んで、はたと気がついた。そもそもこの世に生きることそのものが修行であるということ。官能の世界と精神の世界というのは表裏一体であり、双方は近くて遠いものであるということ、そしてそのことを観衆に訴えかけ、覚醒を喚起する手段としてワーグナーはこの作品を創らされたということを。

ならば「さまよえるオランダ人」の場合は?ある意味クライマックスである第2幕冒頭の「ゼンタのバラード」を聴くが良い。

(とつぜん霊感をおぼえたやうに、椅子からハッととびたって)
「私こそあなたを、まごころでお救ひする妻です。おお天使さま、私をおひきあはせくださいますやうに。私こそこのひとをお救ひする者です」
岩波文庫「さすらいのオランダ人」(高木卓訳)P36)

ゼンタはバラードを歌っているうちに、自分こそがこのオランダ人を救う娘だと目覚める。
ゼンタが純粋なる愛により身を捧げ、オランダ人を救った行為、しかしこれは決して自己犠牲ではなかった。あくまで対峙するその人とひとつになったことで降りてきたインスピレーションであり、必然だったのだ。そう、ここには既に「パルジファル」の根本思想である”Mitleid”(共苦)の思想が流れるのである。

ワーグナー:歌劇「さまよえるオランダ人」
ノーマン・ベイリー(オランダ人、バリトン)
ジャニス・マーティン(ゼンタ、ソプラノ)
ルネ・コロ(エリック、テノール)
マルッティ・タルヴェラ(ダーラント、バス)
アイソラ・ジョーンズ(マリー、メゾソプラノ)
ヴェルナー・クレン(舵取り、テノール)
サー・ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団&合唱団(1976.5録音)

ショルティのワーグナーは確信に満ちた響きに溢れる。幕が進行するにつれいよいよ熱を帯びる。最近ようやく「オランダ人」の面白さがわかってきたように思う。

 


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