ボレットの「愛の夢」「メフィスト・ワルツ」を聴いて思ふ

またしてもゲリラ雨・・・。カフェのはしご。
強烈な暑さの中、1件目は仕事。見知らぬ人々と対峙。2件目は友人女子2人と愉しくも他愛もない会話。そして、3件目は何と雨宿り。今度は独り佇み、自身に向かう。
それにしても「自然」は僕たちに何をおっしゃりたいのでしょうか・・・。何事もなきよう・・・。

その生涯の最後の20年間、彼は超ロマンティック・レパートリーの代弁者として知られた。「ザ・タイムズ」紙の追悼記でも「リストのピアノ曲の彼のヴィルトゥオーソ演奏と理解力、あるいはラフマニノフの作品の内的な緊迫感と外的な豪華さを引き出す彼の妙技を凌ぐピアニストは他にいなかった」と讃えられている。

三浦淳史氏の「ボレットをしのんで」という追悼文には上記の言葉が紹介されているが、元々リストにそれほどのシンパシーを覚えていなかったせいもあろうが、僕は随分長い間この言葉に信憑性をもてなかった。少なくとも音盤で聴く限りリスト演奏において彼を凌ぐピアニストがいないという褒め方はいくら何でも言い過ぎだと思っていた。

僕の感覚が間違っていたのか、あるいは僕の感性が開いたのか、そのあたりの真相はわからないが、とにかく久しぶりにボレットのリストを聴いて、驚いた。例えば、「愛の夢第3番S.541」。終始弱音で紡がれるこの演奏の背景には、確かにフランツ・リストへの他の誰にもない慈悲に満ちた愛が感じられる。そもそも原曲は大いなる人類愛を謳った歌詞に曲が付されたもの。この通俗曲がまるであらたに蘇るようだ。原曲の歌詞は以下の通り。

「おお、愛しうる限り愛せ」(詩:フェルディナント・フライリヒラート)

おお、愛しうる限り愛せ!
その時は来る、その時は来るのだ、汝が墓の前で嘆き悲しむその時が

心を尽くすのだ、汝の心が燃え上がり、愛を育み、愛を携えるように
愛によってもう一つの心が温かい鼓動を続ける限り

汝に心開く者あらば、愛のために尽くせ
どんな時も彼の者を喜ばせよ、どんな時も悲しませてはならない

言葉には気をつけよ、悪い言葉はすぐに口をすべる
「ああ神よ、誤解です!」と嘆いても、彼の者は悲しみ立ち去りゆく

リスト:
・ハンガリー狂詩曲第12番嬰ハ短調S.244
・愛の夢第3番S.541
・メフィスト・ワルツ第1番S.514
・葬送S.173~「詩的で宗教的な調べ」第7番
・「リゴレット」による演奏会用パラフレーズS.434
・ラ・カンパネラS.141
ホルヘ・ボレット(ピアノ)(1982.2&9録音)

リストはメフィストフェレスをモチーフにしての楽曲をいくつも書いているが、おそらく自分自身の内にメフィスト的なるものを自覚しており、それに愛着を覚えるというより作品化することで内なる悪魔を顕在化し、(追い出すことで)真の意味での宗教者になろうともがいていたのかもしれない。そう、いわばリスト流デトックス。
ちなみに、ボレットのこの演奏を聴いてみて思うのだけれど、誘惑的な旋律にもかかわらず、どこか脇が甘い。おそらく彼は「愛の夢」に見られるようにリストの「光」の側面に焦点を当てているのだろう。もっと「闇」の部分を!!その対比が一層浮き彫りになるようなリストだったら僕はもっと惚れ込んでいたかも・・・。

 

 


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