リヒテルの弾くベートーヴェンの作品110を聴いて思ふ

haydn_beetjoven_chopin_debussy_ravel_richter昔、リヒテルの演奏にそれほど感動したことなどなかったのに。
今となってはせっかくの実演に触れることのできる機会を無視していた自分に立腹。
「思い込み」や「情報だけによる判断」がいかに危険か。どんなことも体験、体感あるのみ。リヒテルのベートーヴェンを聴いてあらためて思う。

昨日、内田光子の演奏を聴いて、「間髪おかずに、まるで魂が再生されるかのように響く作品110の第1楽章モデラート・カンタービレ・モルト・エスプレッシーヴォ!!天使が舞い降りるのだ!!!」と書いた。

今夜は、晩年のリヒテルの実況録音盤に替え、作品110を聴く。冒頭の憧れに満ちた主題がなぜか哀しい。確かにそれがリヒテルの音なんだ。僕たちを奈落の底に引き摺り込むような魔力がある。しかし、音楽が進むにつれ、哀しみは愉悦の確信へと変貌してゆく。見事だ。
第2楽章アレグロ・モルトの悠々たる足取りは、前に進むのをどこか拒んでいるよう。一音一音を大切に、想いを込めて歌い切る姿勢が聴く者を「いまここ」に釘付けにする。そして、沈思黙考の第3楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポ。祈りか、内省か・・・、ベートーヴェンはここで何を思うのか?そして、ギア・チェンジし、アレグロ・マ・ノン・トロッポのフーガ。感情を超えた、魂の音。肉体も心も超え、ようやく霊魂に喜びが達したような真の歓喜が訪れる。おそらく極端に照明を落とし、譜面だけを照らした光の下で、リヒテルは一点集中しこの音楽を創り上げたのだろう。録音からも緊張感が伝わる。

・ハイドン:アンダンテと変奏曲ヘ短調Hob.XVII-6
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110
・ショパン:幻想ポロネーズ変イ長調作品61
・ドビュッシー:喜びの島
・ラヴェル:鐘の谷~「鏡」第5番
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)(1992.6.20Live)

おそらく休憩後にショパン以降が奏されたのだろう。
何とも暗鬱とした調子の「幻想ポロネーズ」からして異様だ。晩年の心身を病んだショパンの暗い思念が乗り移るかのよう。しかし、それゆえの深みがある。
その後に続くのが「喜びの島」であることの意味は?
なるほど、ベートーヴェンもショパンもドビュッシーに至る伏線であったのか・・・。確かに音楽史的にもそうだ。そのことをリヒテルはピアノで端的に表現する。
リヒテルのドビュッシーはしみじみと感情に訴えかける。ベートーヴェンやショパンで表現した同じ方法でドビュッシーをやるものだから、フランス的エスプリが影を潜め、ロシア音楽を聴いている錯覚に襲われるほど。何とも不思議な感覚。
ラヴェルについても然り。何と仄暗い美しさよ。
ドイツものを前半に置き、フランスものを後半に並べる。古典派を前半に置き、後半にロマン派から近現代へと移りゆく音楽史の流れを上手に見せる。
この世の中がバランスでできていることをあらためて知らしめてくれるプログラミングと演奏。音楽史のZERO地点はやっぱりベートーヴェンだ。

 


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2 COMMENTS

畑山千恵子

リヒテルはコンサートで聴いたことはありません。 テレビで聴いただけといえ、この演奏は素晴しいものでした。来日しても、プログラムを決めずに当日発表でしたから、期待が大きかったかもしれませんね。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
僕も何度かテレビで観たくらいでした。
そういえば、プログラムはいつも当日発表でしたね。確かに期待が大きかったのかもです。

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