シューベルトの美のある一面を表現するなら、それは歌に溢れる哀しみの美だ。躍動する哀しみ。虚ろな哀しみ。あるいは慟哭の・・・。滔々と流るる息の長い旋律美。そして、表現者が深い呼吸を伴ってその作品に挑む時、最高のシューベルトが現出する。方法は十人十色であろう。誰のどんな演奏を聴いたとしてもそのチャレンジがあるなら、そして「哀」というものが見出せるなら、そこに絶美の音楽を感じることができるんだ。
1824年のシューベルト。彼のメモ書きから。
「3月25日。苦しみは理性を研ぎすまし、心を強くする。しかし喜びは、理性などに構いはしない。また心を女々しくし、つまらないものにしてしまう」
これをネガティブと捉えるのか一種の悟りと捉えるのか・・・。
「3月27日。他人の苦しみを理解し、他人の喜びを理解するものなど誰もいない。人は互いに求め合うと信じながら、実は互いにすれちがっているのだ。おお、このことを思い知ったものには、悩みがある。僕が生み出す作品は、音楽への能力と、僕の苦しみとから生まれてくる。それも苦しみから生まれた作品の方は、一向に世の中を喜ばせないようだ」
いかにも深みのある尊いメッセージのように思えなくもないが、おそらくそんな高尚なものではない。この頃女性に振られたか何かなんだろう。彼の一方的な恋。つまり、単なる片思い。
なるほど、同じ頃創造された通称「死と乙女」と呼ばれる弦楽四重奏曲など、その根底に流れるものは「傷心」なんだ。第1楽章の強烈な主題提示がそのことを物語る。そして、第2楽章アンダンテ・コン・モートは研ぎ澄まされた理性による自慰。それでも聴く者は世の中を喜ばせないどころかこの音楽の虜になる。ここにシューベルトの、本人が自覚しない天才があった。
シューベルト:
・弦楽四重奏曲第14番ニ短調D810「死と乙女」(1994.4Live)
・弦楽四重奏曲第10番変ホ長調D87(1997.4Live)
アルバン・ベルク四重奏団
アルバン・ベルク四重奏団の、まさに理性に裏打ちされた演奏が僕たちを魅了する。いつまでも終わらない、永遠を感じながらのシューベルト三昧。シューベルト好きはこの「永遠」にシンパシーを覚えるんだ。
時代を遡って1813年のシューベルト。
その前年5月の母親の死。15歳のフランツの心の内側はどんなだったのか?母親への満たされない感情がその後の彼を随分悩ましたことだろう。しかし、その悩みこそが創造のエネルギーであり、それゆえに決して終わりを告げようとしない音楽がいくつも紡がれたのだ。それこそ永遠に母を追い、その投影としての女性を追った・・・。ついに叶わず・・・。何という「哀しき美」。
変ホ長調四重奏曲の内に在る「優しさ」と「柔らかさ」は母への想いを綴ったものなのか。ここにもやはり「哀しみ」が垣間見える。
シューベルトは、死ぬまで、孤独だったんだ。満たされなかったんだ。
でも、それゆえにこそシューベルト音楽が生まれた。
嗚呼・・・。
※シューベルトのメモ書きは前田昭雄著「シューベルト」(新潮文庫)から引用。
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