デュトワ指揮フィラデルフィア管のラフマニノフ「鐘」(1992.1録音)ほかを聴いて思ふ

わたしは怖ろしい正気を長く経験したのち狂気にいたった。
(エドガー・アラン・ポー)

1880年夏7月、メックはインターラーケンでパフリスキ、チェロ奏者ダニーリチェンコ、ドビュッシーと音楽を楽しんでいた。雇ったばかりの「小柄なフランス人」=ドビュッシーは下の子どもたちに音楽を教え、娘ユリアの歌を伴奏。そしてオペラ《オルレアンの少女》(ピアノ版)を弾き、夫人とビゼーの《アルルの女》やグリンカの《ホタ・アラゴネーゼ》、チャイコフスキーの交響曲第4番を連弾するほか、《白鳥の湖》のスペインやナポリ、ロシアの踊りなどを連弾用に編曲した。
伊藤恵子著「作曲家◎人と作品シリーズ チャイコフスキー」(音楽之友社)P125-126

チャイコフスキーのパトロンであったナジェージダ・フォン・メック夫人が、ヨーロッパ旅行に同行してくれるピアニストを探していたそのときに、指名されたのが、当時18歳のクロード・ドビュッシーであったことは有名な話。青年ドビュッシーは、チャイコフスキーの組曲第1番第1楽章を聴き、「これほど美しいフーガをきいたことがない」と夫人に感嘆の叫びを漏らしたほどだという。

偶然か必然か、人と人のつながりの妙味を思う。
ドビュッシーが連弾用に編曲した「白鳥の湖」からの踊りは、いずれもが愛らしい、後のドビュッシーとは異なる、何とも表現し難い世紀末的浮遊感にはやや乏しいものの、明確な意志を湛えた音楽が堂々と鳴らされる。そこにはおそらくドビュッシーの音楽家としての未来展望が既に拓かれているのだと思う。

ドビュッシー:4手&2台のピアノのための編曲集(ドビュッシー編曲)
・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
・シューマン:ペダル・ピアノのための練習曲(カノン形式による6つの練習曲)作品58
・サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ作品28
・サン=サーンス:グルックの「アルチェステ」のバレエの旋律によるピアノのための奇想曲
・チャイコフスキー:「白鳥の湖」からの3つの踊り
—ロシアの踊り
—スペインの踊り
—ナポリの踊り
・ワーグナー:「さまよえるオランダ人」序曲
ジャン=フランソワ・エッセール(ピアノ)
ジョルジュ・プリュデルマシェール(ピアノ)(1993.6.9-10Live)

ルーヴル美術館の大講堂での実況録音。
時代の最先端を走る作品を選別するドビュッシーの才。陳腐な表現しか思い浮かばないが、どれもが本当に「美しい」(自身の出世作である「牧神」の内なる恍惚感!)。

ところで、全盛期のドビュッシーが傑作「海」創作と同時期に作曲を試みようとしていたのが、愛するエドガー・アラン・ポーの短編に基づく舞台作品「鐘楼の悪魔」であったことは興味深い。残念ながらこの作品は、2場分のシナリオは仕上がったものの未完に終わっているのだが(同じく彼の死によって未完に終わらざるを得なかったポー原作の「アッシャー家の崩壊」と合わせ実に残念)。

昼間も夢をみる人は、夜しか夢をみない人が見落とす多くのことに気づいている。
(エドガー・アラン・ポー)

ポーは凡人の反対側から世界を見ていたのだと思う。
ちなみに、「鐘楼の悪魔」はドビュッシーの創発から数え10年後、セルゲイ・ラフマニノフのところに形を変え、インスピレーションが降ろされた。

夏のイワーノフカで、彼は匿名の人から最近出版されたエドガー・ポーの詩「鐘」の翻訳を読んでもらいたいという手紙を受けとった。これらの詩は、音楽には理想的で、特に彼のために作られたようなものだと書いてあった。署名はなかった。ラフマニノフは思わず苦笑した。しかしそれでもひととおり読んでみると、合唱とオーケストラのための交響詩の形が、思いがけず圧倒的な力で想像力を燃え上がらせ、今までの構想と計画を押し退け、打ち壊してしまった。これは正に彼がこの1年手探りで探してきた「人間の生涯の四季を取り上げた壮大な詩」そのものだった。それは、己れの渇望を見つめる輝かしい、抑制しがたい若さに始まり、祝福された仕合せへのあこがれ、人生の道中で人びとを待ち構える不幸と恐怖、そしてついには浮世の避けがたい終曲である死の安らぎを歌っていた。
ニコライ・バジャーノフ著 小林久枝訳「伝記ラフマニノフ」P313-314

実際、この作品は当初、作曲者自身により交響曲第3番として扱われていた。それを考えると、いかに彼がポーの詩に感銘を受け、そこから類い稀なる音楽的創造の種を得ていたか。

デュトワは音楽に没入する。誠心誠意でラフマニノフに尽くすのだ。

ラフマニノフ:
・合唱交響曲「鐘」作品35(1913)
・カンタータ「春」作品20(1902)
・3つのロシアの歌作品41(1926)
アレクサンドリナ・ペンダチャンスカ(ソプラノ)
カルディ・カルドフ(テノール)
セルゲイ・レイフェルクス(バリトン)
フィラデルフィア芸術協会合唱団
シャルル・デュトワ指揮フィラデルフィア管弦楽団(1992.1録音)

単なる感傷のドラマではない。音楽には生きることの喜びが反映される。思い入れたっぷりの浪漫的解釈は、ラフマニノフに相応しく、壮麗壮大で見事。何よりレイフェルクスのバリトン独唱と合唱による第4楽章「死を表す鉄の鐘」が、厳粛かつ重厚で感動的。

心理学的に正しくみれば、死とは生の終りではなく目標なのである。したがって、太陽が子午線を通過するとともに、生は死に向かい始めるのである。
「ヨーロッパの読者のための注解」
C.G.ユング・R.ヴィルヘルム/湯浅泰雄・定方昭夫訳「黄金の華の秘密」(人文書院)P87

少なくともこの頃のユングは、東洋を西洋より格下に位置付ける。
しかし、華厳経に触れるにつけ、いかに東洋思想の根源が人智で測ることのできない奥深いものであるかを彼は深層で理解すしていった(それでも西洋の優位性を何とか説こうとしているところが往生際悪い)。

ところが、われわれ(西洋人)が中国の教えに文字通り従うとすれば、われわれは間違いなくそういう英雄的自己超克の態度におちいってしまうであろう。
われわれ(ヨーロッパ人)は、われわれの歴史的前提を決して忘れてはならない。
~同上書P88

ロシアの音楽には、西洋と東洋の融合がある。ロシア人は、おそらく東西の優劣を問うことはなかっただろう。ラフマニノフの音楽にもそういうものがれっきとあるように思う(そしてまたドビュッシーは東洋から多大な影響を受けた)。

 

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