トスカニーニ指揮NBC響のヴェルディ 歌劇「オテロ」(1947録音)を聴いて思ふ

verdi_otello_toscanini435「無門関」には「不思善悪」という章がある。

明上座はためらい恐れ戦いて言った、「私が追っかけて来ましたのは法を求めるためであって、衣が欲しかったからではないのです。どうか慧能さん、この私に悟りの内容を打ち明けてもらえまいか」。六祖は言った、「善とか悪とかを離れたとき、一体どれがあなた様の本来の姿でありますか」。その途端、明上座は大悟した。全身汗びっしょりになり、涙が止めどなく流れた。大地にひれ伏した明上座は、「いまお教え頂いた秘密の言葉や内容のほかに、さらに深いものがあるのではないでしょうか」と尋ねた。六祖は言われた、「私がいまあなたのために示したものは秘密でもなんでもありません。もしあなた自身が自分自身の本来の姿を振り返ってみられれば、秘密はあなたの中にこそあるでしょう」。
西村恵信訳注「無門関」(岩波文庫)P101

「魔笛」ではないけれど、立ち位置が変われば善悪は入れ替わるもの。より高いところから俯瞰すれば、なるほど善も悪もないことはわかる(だろう)。ならばあえてどちらにも注力しないことだ。

イアーゴこそキーマン。悪の権化と称される彼は、二枚舌の妙味でオテロらを自らの思う壷に巻き込んでゆく。愛と裏返しの憎悪は大きな原動力。抑圧から生じる発散の力はあまりに大きい・・・。壮絶なエネルギーがそこかしこに渦巻くオペラの再現には同じように愛と憎悪の両方に支配される音楽家の方法が必要だった。そもそもイアーゴは作曲者ヴェルディの化身なのである。

ヴェルディは「ローエングリン」を観てから、更に不機嫌オヤジになったという。肉体的にはやけに元気だった。特に愛人シュトルツにサンターガタから10キロほど離れたベセンツァーノという小さな村に家を借りてやり、そこから毎日のようにサンターガタに通わせていた時には、彼女が訪問してくると、とにかくまずは事をいたしてから、レッスンにしても打合せにしても始まったという。これは当時の下男の手紙で明らかなのだという。「シュトルツ様がお出でになると、マエストロはまず、シュトルツ様のムタンデをおとりになるのが仕事始めでした」と書いてあるそうである。還暦を過ぎても精力絶倫だったのだ。そのエネルギーがあるからこそ、フラストレーションも大きい。ワーグナーの真似なんてやる気もない。
永竹由幸著「ヴェルディのオペラ―全作品の魅力を探る」(音楽之友社)P403

第2幕最後の、オテロに扮するラモン・ヴィナイとイアーゴを演ずるジュゼッペ・ヴァルデンゴによる二重唱「大理石のような空にかけて誓う!」の壮絶さ。
また、第3幕のヘルヴァ・ネルリによるデズデモーナの「ご機嫌がうるわしいようですね」の美しさは、オテロの内心の嫉妬と怒りと相対し、一層の心の穏やかさが強調される。

音の良し悪しや新旧はこの際無関係。
再現音楽の真実とは、それを奏する者がその作品にどれほどの想いを持っているのかに比例するようだ。当然だけれど。

ヴェルディ:歌劇「オテロ」
ラモン・ヴィナイ(オテロ、テノール)
ヘルヴァ・ネルリ(デズデモーナ、ソプラノ)
ジュゼッペ・ヴァルデンゴ(イアーゴ、バリトン)
ナン・メリマン(エミーリア、メゾソプラノ)
ヴィルジニオ・アッサンドリ(カッシオ、テノール)
レスリー・チャペイ(ロデリーゴ、テノール)
アーサー・ニューマン(モンターノ、バリトン)
ニコラ・モスコーナ(ロドヴィーコ、バス)
ピーター・ウィロフスキー指揮合唱団
エドズアルト・ペトリ指揮少年合唱団
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団(1947録音)

一切の弛緩なく、最後まで緊張感をもって進められる音楽の素晴らしさ。歌手の歌唱はさすがに古びた印象を与えなくもないが、トスカニーニ率いるオーケストラの響きは、絶大なる力とエネルギーの放出をもって僕たちの魂を鷲づかみにする。

なかでもヴェルディの「オテロ」は世界初演であり、73歳の老巨匠が直接、公演の監修にあたった。
「オテロ」のリハーサルのときだった。第1幕のオテロとデズデモナの愛の二重唱はチェロの四重奏によって導かれるが、そこでヴェルディが「第2チェロ!」と声を上げた。名指しされたトスカニーニは驚いた。老巨匠は若き第2チェロ奏者に言った。「君の音は柔らかすぎる。もっと大きく弾きなさい」。楽譜にはピアノと書かれていたが、ヴェルディはもっとはっきりとした音を欲していたのだ。あるいは、実際の劇場では大きめに弾くべきだと教えたのかもしれない。このヴェルディとの直接のコンタクトは、トスカニーニに強烈な印象を残した。
山田治生著「トスカニーニ―大指揮者の生涯とその時代」(アルファベータ)P31

第4幕、デズデモーナの哀しい愛が見事に投影される「アヴェ・マリア」の美しさ。
また、妻を殺し、そして自死する最後のシーンの「デズデモーナ、デズデモーナ」とうなる恐るべき官能。ヴェルディは、ワーグナーの真似なんてやる気もなかったと言うが、愛と死の同期するこの場面は、方法こそ違え、ワーグナーの魂と相通ずる。
なるほど、音楽とは極めて俗なる世界だ。明上座の如く大悟してしまったらば、この悲哀も愉悦も享受し得ないだろう。
オーパス蔵の名復刻によるあまりに生々しい音で・・・。

 

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2 COMMENTS

雅之

>ヴェルディは、ワーグナーの真似なんてやる気もなかったと言うが、愛と死の同期するこの場面は、方法こそ違え、ワーグナーの魂と相通ずる。

そうですね。「オテロ」は、まさに、マルケ王を主役にした「トリスタンとイゾルデ」ですね。

私がそれを強く実感したのは、還暦になったブラシド・ドミンゴがオテロを演じたDVDを視聴した時でした。

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3-%E6%AD%8C%E5%8A%87%E2%89%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%83%AD%E2%89%AB%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A9%E5%BA%A72001%E5%B9%B4-DVD-%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3/dp/B004C4JHI6/ref=sr_1_1?s=dvd&ie=UTF8&qid=1454242878&sr=1-1&keywords=%E3%82%AA%E3%83%86%E3%83%AD

これほどマルケ王の苦悩に通ずるオテロをわからせてくれたのは初めてで、ドミンゴの声の衰えが奥深さに見事に変換されていて、見事でした。

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岡本 浩和

>雅之様

そう、マルケ王を主役にした「トリスタン」だと僕も思います。
とはいえ、ご推薦のドミンゴのDVDは観ておりません。枯れた味わいが見事なのでしょうね。
これは観なければ、ですね。
ありがとうございます。

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