マリス・ヤンソンス指揮フィラデルフィア管 ショスタコーヴィチ 交響曲第10番(1994.3録音)

交響曲第10番にもっとも声高に反対した者たちは、ジダーノフのころから広められた「リアリズム的手法」という偏狭な観点から、それを評価していた。彼らは必然的にそれに物足りなさを感じた。楽観性、感情を高揚させる要素が不十分で、旋律的にも十分に美しいとは言えない。また、複雑過ぎて大衆がすぐに真価を認識することはできないし、昨今のソビエトの現実を正確に反映していないと、感じられたのである。だが、その直前に行われた似たような会議とは対照的に、イデオロギー的正統性を守ろうとする者たちの、頑固な独断性と偏狭で定石通りの芸術的手法にもどかしさを感じていた演説者は、相当な数にのぼった。交響曲の援護者たちは、あたりはばからず、その価値、目の覚めるような技法、人心を鼓舞するような独創性を褒めたたえ、ソビエト聴衆の多様な要求と嗜好に配慮している点を指示するよう呼びかけた。ショスタコーヴィチは満足したようだった。
ローレル・E・ファーイ著 藤岡啓介/佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチある生涯」(アルファベータ)P248

スターリン死去後に巻き起こった「第十論争」は、ソヴィエト国内の思想的混乱を喚起したが、果たしてショスタコーヴィチの真意はどうだったのか?

この作品のなかでは、人間的な感情と情熱とをえがきたかったのである。
工藤庸介著「ショスタコーヴィチ全作品解読」(東洋書店)P63

作曲者の想いはただそれだけだったという。
人間というのは、どうしても意味を探したがる不思議な生き物だ。他人には本意などわかるはずもない。果たして勝手な妄想や論争が、自らの首を絞める足枷にもなるのに。

カラヤンがこの作品に関心を持ったきっかけの一つは、D.オイストラフから「この交響曲第10番に注意を払うべきだ、自分はこの曲がショスタコーヴィチの最も美しい交響曲だと思う」といわれたことであった。カラヤン自身も実際に作品を取り上げた後に「自分はこの交響曲をとても高く評価している」と述べたという。
~同上書P64

実際ヘルベルト・フォン・カラヤンの録音は、洗練された外面的美しさだけでなく、作曲者の内面を厳しく抉るような深みを持つ(カラヤンにしては実に意外なほど)傑作だ。たぶん、この交響曲に、彼は価値と独創性を見出したのだろうと思う。しかし、作曲者の言う「人間的な感情と情熱」を描き切っているかと言えば、否。

ところで、先日亡くなったマリス・ヤンソンスは、死の1ヶ月前、バイエルン放送交響楽団とのツアーの最中、パリで一夜のコンサートを開いている(10月31日)。そのときのプログラムは、ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番(ルドルフ・ブッフビンダー独奏)、休憩をはさんでショスタコーヴィチの交響曲第10番、そして「ムツェンスク郡のマクベス夫人」第1幕第6場&第7場というものだった。実際そのコンサートに触れた方の話を伺うと、舞台袖から徐に出て来た彼の顔面は蒼白で、今にも死にそうな危うい雰囲気だったのが、演奏が始まるや顔は紅潮し、徐々に生気を取り戻していくほど渾身の凄演だったということだ。
中でも、十八番のショスタコーヴィチは、イデオロギーを排除した、音楽だけしか感じさせない、言語を絶する強烈な名演奏だったと。

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第9番変ホ長調作品70
ペル・ハンニスダル(ファゴット)
マリス・ヤンソンス指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団(1991.1.25-30録音)
・交響曲第10番ホ短調作品93
マリス・ヤンソンス指揮フィラデルフィア管弦楽団(1994.3.5&7録音)

マリス・ヤンソンスの解釈は、極めて人間的だ。
第1楽章モデラート冒頭、暗澹たる悲劇的音調にもかかわらず、音は熱く開放的。なるほどここには、思念を解放した、純粋な音楽的情熱が漲るのだ。早くも名演奏の予感が。続く、第2楽章アレグロは、激しくうねるも、決して踏み外さず、(第3楽章アレグレット―ラルゴ―ピウ・モッソと同じく)丁寧にショスタコーヴィチのアイロニカルな一面を描く。
第4楽章アンダンテの、静謐な祈り。そして、終楽章アレグロの(DSCH音型発露時の)まさに二枚舌的不敵な高笑い(ヤンソンスのショスタコーヴィチに対する思い入れの深さが如実に刻印される)。嗚呼、すべてが深遠だ。

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