シュヴァルツコップ&フルトヴェングラー「ヴォルフ歌曲集」を聴いて思ふ

wolf_schwarzkopf_furtwangler言葉によって個性が作られるのだと聞いた。なるほど。
リヒャルト・ワーグナーが、ベートーヴェン以降音楽に「アニマ」、すなわち動物的なるものが宿ったと言ったことは前にも触れた。然らば、音楽というものも言語が支配するようになって個性的になった一方で、真理から分離、次第に遠のいてゆく羽目になったということか・・・。僕の中ではここのところ楽聖の第9交響曲は失敗作だという結論に達する。言葉が真理を突いているようでかえって「嘘くさく」なっているから。それならばモーツァルトの「ジュピター」交響曲やバッハの「無伴奏」ものの方がよほど真理に近い。そして、ワーグナーの楽劇も言葉のある部分より音楽だけで「語られる」パートの方がより一層の説得力がある。
言葉は個性を広げ、それによって音楽も多様性を示すようになったが、逆にそれが足枷になり、20世紀の無調の行き詰まりを生み出すことになったのでは・・・?

ギリギリのところ、世紀末のマーラーの諸作や、シェーンベルク、あるいはヴェーベルンの試作など、音楽崩壊の直前のものはどうにも最後の輝きを示すよう。

フルトヴェングラーが珍しく伴奏し、シュヴァルツコップが歌うフーゴー・ヴォルフを聴いた。1953年のザルツブルク音楽祭の一夜をそのまま収録したこの音盤は実に堪らない。何と意味深く、時に嫋やかで、時に切なく哀しい音楽であることよ。基本的にヴォルフは不健康だ。そこには世紀末の絢爛と退廃が同居する。そして、重要なのは歌唱よりもピアノ伴奏。そう、ヴォルフが愛したワーグナーの音楽にあるように音楽が言葉を凌駕するのだ。フルトヴェングラーの、この得も言われぬピアノ音楽の根底に流れるものは「魔」であり「間」だ。そして、それは「真」と言い換えることもできるかもしれない。

ヴォルフ:
「メーリケ歌曲集」より
・春に
・妖精の歌
・さようなら
・眠る幼子イエス
「ゲーテ歌曲集」より
・自然の現象
・お澄まし娘
・恋に目覚めた女
・アナクレオンの墓
・花の挨拶
・エピファーニアスの祭り
「イタリア歌曲集」より
・どんなに長い間私は待ち望んだことでしょう
・何をそんなにかっかとしているの
・いけませんわ、お若い方
・私の恋人が私を食事に招いてくれたの
「スペイン歌曲集」より
・私を花でつつんでね
・主よ、この地には何が芽生えるのでしょう
・私の髪のかげで
・口さのない人たちにはいつも
・明るい月が(ケラー詩)
・夏の子守歌(ライニック詩)
・魔法の夜(アイヒェンドルフ詩)
・ジプシーの娘(アイヒェンドルフ詩)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(ピアノ)(1953.8.12Live)

この22曲が当日の歌唱順なのかどうなのか勉強不足で知らないが、後半になるにつれ演奏がより自然になり、かつ濃密度を増していくのだから凄い。しかも、フルトヴェングラーのピアノは相変わらず繊細で。

作曲者20歳の作「夏の子守歌」に癒される。

山から降りてきて
もうお日様もお休みしようとしているわ
私の坊やも揺りかごの中
小鳥たちもみんな巣の中よ
たった一羽の歌う鳥だけが
夕暮れの中でこう歌ってる
「おやすみ、おやすみ、可愛い坊や、おやすみ!
おやすみ、おやすみ、可愛い坊や、おやすみ!」
※歌詞対訳はこちらのサイトより拝借

さらには、「魔法の夜」におけるシュヴァルツコップの絶唱!!!
ここでもピアノは静かに雄弁だ。

 


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