Astor Piazzolla “Tango : Zero Hour”を聴いて思ふ

piazzolla_tango_zero_hour既成の概念を打ち破るというのはとても難しいことだ。「枠」の中に凝り固まるのではなく、常に新しいことにチャレンジする。そのことの大切さを日々若者に説いていても果たして僕自身にそれができているかと言えばまったく「?」。せいぜい、他人とは違う、独自の、他者評価を気にしない道、生き方を追求するくらい。
過去、現在と、世の天才たちは皆、この「枠」を打ち破ることのできる力を持っている。
残念ながら、その日その時には大方の人々がわかってはくれない。モーツァルトもベートーヴェンも辛酸をなめた。時代を駆け上がって、マイルス・ディヴィス然り、アストル・ピアソラ然り。

もうひとつ残念だったのは、東京公演が1回のみだったにも拘わらず、客席が半分しか埋まらなかったことである。まさに隔世の感あり、といったところだが、あの口惜しさは決して忘れられるものではない。
斎藤充正著「アストル・ピアソラ闘うタンゴ」P491

1985年7月28日の虎ノ門ホールでの公演について斎藤充正氏は語る。時代は完璧にピアソラを無視していたということか。そういう僕も意志さえあれば観ることができたはずなのに意識すらしていなかった。

先週、パリでピアソラに会った時、「モントルー・ジャズ・フェスティバルのライヴをレコーディングしたんだが、出来はまったく不満だ。日本でのコンサートは最高の出来だったのに、何故ライヴ・イン・ジャパンをレコーディングしてなかったんだ」と言って、おこっていたよ。
P491

音楽というものがまさに時間と空間芸術であることを如実に示すエピソード。せめて録音でと僕たちはかつての名演奏を探し、追い続けるが、その録音すら残っていないのだとすると、これほど残酷なことはない。ましてや、ちょうどあの頃スタジオでレコーディングされた傑作を知る今の僕たちにとってみると・・・。

Astor Piazzolla:Tango Zero Hour

Personnel
Astor Piazzolla (bandoneón)
Fernando Suárez Paz (violin)
Pablo Ziegler (piano)
Horacio Malvicino, Sr. (guitar)
Héctor Console (bass)

“Tanguedia Ⅲ”冒頭のSEが何やら意味深い。喧騒の中から生み出されたモダン・タンゴが行き着いたのはあらゆる音楽イディオムを吸収した「ピアソラ」という世界だ。
“Milonga del Angel”(天使のミロンガ)におけるバンドネオンの愛おしい哀しみ。中間部にあらわれるスアレス・パスのヴァイオリンの濃厚なポルタメントが秋を思わせる。そして、”Concierto Para Quinteto”(五重奏団のための協奏曲)の、壮大な協奏曲。何という懐かしさと切なさ。白眉は、掉尾を飾る”Mumuki”。こんな音楽が生み出せるのならもう死んでもいいと思うのでは・・・。まさに「命の尊さ」を示すような作品。

ピアソラは語る。音楽の深みを表現するにはある程度年月を経ないと無理だということだ。

最後の悪あがきかもしれないが、年を取るにつれて命の尊さというか、命にしがみつく、そういった気持ちが音楽にあらわれてきているんだと思う。自分が若かった20代の頃といまとでは、やはり音楽の愛し方が変わってきた。いまの方がずっと愛しているよ。
~「ラティーナ」1986年10月号・文:高橋敏

 


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