ルキノ・ヴィスコンティ監督作「ベニスに死す」を観て思ふ

visconti_death_in_venice恋は盲目という。いや、何も恋に限らず、心底魅了されれば人は「自分」を忘れる。それを「忘我」というなら、それこそがまさにエクスタシーだ。
自身の命よりも大切な誰かの存在があるときに人の意識は外に向く。対象が誰であれ「人を好きになる」ことは脳を開く一番の薬だろう。

もう繰り返し何度観ているかわからない。おそらく十数年ぶりの鑑賞だと思うが、久しぶりの「ベニスに死す」にやっぱり感動した。そして、観るたびに様々な「気づき」を得ることができる「深さ」にひれ伏した・・・。
現実と幻と・・・、その狭間にグスタフ・アッシェンバッハはありながら、「恋心」そのものは否定することのできない「現実」であることを身に染みて思う。そしてまた、人間が老いていくことも現実だ。しかしそれは、あくまで身体という表層のことで、魂は永遠でいつまでも朽ちることはない。

覚えている
父の家にも
砂時計があった・・・
砂がなくなったことに気づくのは
おしまいの頃だ。

時間という幻想に人は縛られ翻弄される。

一旦ベニスを離れることを決断するアッシェンバッハ。マーラーの「アダージェット」をバックに、小舟に揺られる彼の悲しげで憂鬱な表情。しかし、荷物が手違いでリドに送られてしまったことから2,3日足止めを食らうことになる。再びホテルへと戻る小舟での何という晴れ晴れとした、しかも「にやけた」と表現してもいいほどの嬉しそうな明るい表情は、ほんの数分前のそれと比較したとき観る者までもが恥ずかしくなるほど。これこそダーク・ボガードの名演技。
ここで重要なことは、アッシェンバッハが本来真面目で頑なな性質の持ち主だということだ。そういう人間すらを動かす力が「恋」という感情にはあるということ。そのあたりは原作をひもとくと興味深い。

アッシェンバッハは享楽を好まなかった。仕事を休んだり、安息に専念したり、のんきな日々をすごしたりせねばならぬ場合にはいつでも、またどこでも、かれはすぐに―そしてことにもっと若い頃にはそうだったが―不安と嫌忌をおぼえて、日常生活のけだかい艱難へ、神聖で冷静な奉仕へもどりたくてたまらなくなるのだった。
岩波文庫版「ヴェニスに死す」(実吉捷郎訳)P66

ルキノ・ヴィスコンティ監督作「ベニスに死す」(1971年)
原作:トーマス・マン
音楽:グスタフ・マーラー
ダーク・ボガード(アッシェンバッハ)
ビョルン・アンドレセン(タッジオ)
シルヴァーナ・マンガーノ(タッジオの母)
ロモロ・ヴァリ(ホテルの支配人)
マーク・バーンズ(アルフレッド)
マリサ・ベレンスン(アッシェンバッハ夫人)

剽軽な流しのチンドン屋(?)のシーンが意味深い。嘘をつき、おどけて最後にベロを出し、道化は去ってゆく。まさに人生とは他愛もない喜劇であり、幻想なんだということを示唆するかのように。ならばその幻を終えさせる「死」など怖くないのだとヴィスコンティは言いたいのか。
それよりも「恋」だ。エロスだ。人を好きになることだ。これこそ命の炎を点火する永遠不滅の感情だ。
人にとって他人の存在は不可欠だ。「老い」を悔いるのも変身願望も、すべては他人の気を引くためということ。ならば、他との比較の中に人はあり、その関係の中で他人から刺激を受け、人は傷つきもし、成長もする。

そういう笑い方はよせ、
他人にそんな笑顔を見せるな・・・愛している

アッシェンバッハはタッジオの仕草に嫉妬し、ひとり呟く。
興味深いのは、少年タッジオが自分を見つめる中年(といっても40歳!)の存在に気づいているという事実。常に思わせぶりな素振りを見せる彼の動きがまたアッシェンバッハの「恋心」に火をつけるのである。

かれはこの白髪の、広いひたいの男のまえに、つつましく目をふせたが、すぐにまたその目を、例の愛くるしい調子で、やわらかくまともにかれのほうへあげてから、通りすぎて行った。さよなら、タッジオ、とアッシェンバッハは思った。
岩波文庫版「ヴェニスに死す」(実吉捷郎訳)P59

老いと若きと、美と醜悪と、現実と幻想と・・・、そして愛と死と。
対立する様々な事象がテーマの内側に蠢き、そのたびに観る者を釘付けにするヴィスコンティの才(ほぼマンの原作をそのまま踏襲しているゆえ、マンの才ということもできるが、わずか2分のシーンを丸1日かけて撮影に当てるというヴィスコンティの執念、というか拘りの映像美のもたらす効果は大きい)!!
グスタフ・アッシェンバッハは言う。

芸術は教育の最高要素だ。
芸術家は手本であるべきだ。
バランスと力の象徴でなくてはならん
曖昧は許されない。

それに対しアルフレッドの答は・・・。

だが、芸術は曖昧だ
特に音楽は芸術の中で最もその性格が強い
それが自然科学をも作った

アッシェンバッハはやはり頑なだ。僕は思う。すべては「曖昧」の中に在るものだと。
ギリシャ彫刻のような圧倒的な美を天から授かった少年に恋心を抱くも決して成就され得ないことを悟る芸術家は、コレラの感染によって死を迎えるラスト・シーンでようやくすべてが「曖昧さ」の内に在ることに気がつくのである・・・(あくまで僕の空想だが)。

※それにしても岩波文庫版の翻訳はいただけない。文庫は他にも新潮社、集英社、光文社と揃っているのでいずれ比較してみたい。

 

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3 COMMENTS

畑山千恵子

翻訳には名訳がある一方、ひどい訳もあったりしますね。最近の翻訳家のレヴェルが堕ちたと感じています。日本語の使い方がひどすぎます。「思い起こす」は「思い出す」、「思わせる」の方が自然で読みやすいですね。第一、翻訳は文章を書くことだということがわかっている人がほとんどいません。中には、大変ヘタな翻訳で、これで翻訳家という人が少なくありません。
そろそろ、翻訳家もキチンとした文章を書ける人を育成すべき時期に来ているようですね。そうでないと、これは、という翻訳家が増えていくだけではないでしょうか。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
岩波版「ヴェニスに死す」は初版が1939年で、格調高い文章なのですが、おそらくマンの文体を尊重するべくほぼ直訳のため難しく感じるように思います。やっぱり現代人に合わせたある程度の意訳が必要だと思う次第で・・・。
一番新しい光文社のものはまだ読んでいないので読んでみようと思っています。
実際比較すると意外に岩波版の良さがわかるかもしれませんし・・・。

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ポゴレリッチの「エリーゼのために」を聴いて思ふ | アレグロ・コン・ブリオ

[…] ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」には、タッジオが「エリーゼのために」の主題のみを単旋律で繰り返し弾くシーンがある。トーマス・マンの原作にはない場面だが、いかにも唐突でヴィスコンティの意図を測りあぐねていたところ、集英社文庫版に大いなるヒントがあった。それは、荷物が誤ってリドに送られたことで、アッシェンバッハが仕方なしに(?)ホテルに戻った直後の描写。 […]

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