ムラヴィンスキーのモーツァルトK.543を聴いて思ふ

mozart_39_sibelius_7_mravinskyモーツァルトはやっぱり美しい。一分の隙もなく、ひとつひとつの音があまりに神々しい。
すべてが筆舌に尽くし難く、ともかく「音」に浸るのが一番だという音楽たち。言葉にすればするほど陳腐になり、「意味」が遠のいてしまう。

人は誰しも「自由」を追い求める。しかし、「自由」は「束縛」あってのものだ。つまり、ルールがないところに「自由」は生まれ得ないということ。なるほど、限られた規範の中で魂を飛翔させるという点でモーツァルトに優る音楽家はいないのかも・・・。

エフゲニー・ムラヴィンスキーにあるのは律動の正確さと、時の移ろいとともに在る変幻自在の音色、響きである。その意味では、彼の再現芸術も言葉にし難い。そして、いかにも決められた範疇の中でこれでもかという「飛翔」が見られる最右翼のひとりであるように僕には思われる。

ムラヴィンスキーは語る。

聴衆に接しての長年の経験により、映画や演劇やミュージカルではなく、コンサートに行く人々は、純粋芸術、最も神聖な音楽に心を動かす独特なものを求めているのだと言える。人々はわかりやすいが才気のない作品でも常に遠慮して黙ったままだが、様式と内容に深みがあり、真の人間性を想像する作品を見つけるのである。
グレゴール・タシー著 天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」P239

やはり「様式と内容の深み」がポイントだ。

モーツァルト:
・歌劇「フィガロの結婚」序曲K.492
・交響曲第39番変ホ長調K.543
シベリウス:
・管弦楽のための「レミンカイネン組曲」~「トゥオネラの白鳥」作品22-3
・交響曲第7番ハ長調作品105
ムソルグスキー:
・歌劇「ホヴァンシチナ」第1幕前奏曲「モスクワ河の夜明け」
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1965録音)

ある時期からレパートリーを絞り込んだムラヴィンスキーが採り上げた作品は、いずれもが贅肉の削ぎ落とされた、厳しい造形をモットーとしている。とはいえ、テンポは必ずしも快速とはいえず、楽想をぴたりと言い当てた、音楽の流れを絶対に損なわない研ぎ澄まされた感触をもつ。

K.543の第2楽章アンダンテ・コン・モトの低弦楽器に聴こえるパルスこそがムラヴィンスキーの真骨頂。なるほど、打楽器含めたベースに耳をそばだてることでムラヴィンスキーの真価が一層明確になるというもの。フィナーレはお祭だ。何という解放!!何という歓喜!!!

その後のシベリウスの第7番に卒倒した。ムラヴィンスキーにとってモーツァルトとシベリウスは表裏だ。ここにも実に深いパルスが根差し、例の金管による主題の咆哮が大いなる「飛翔」への表現であることをようやく悟った。最高、である。

窓の外は灰色
早い黄昏がたちこめ
深い沈黙がとりかこむ。
まるで誰かが細い細い糸で引っ張っているように
まるで二十日ねずみにしがみつかれているように
心が少しずつ落ちこんでいく。
奈落へ!
~1973年3月、ムラヴィンスキーの言葉(河島みどり訳詞)

人間はとても小さな檻に閉じ込められているような存在だ。
そして、音楽こそがその檻を無条件で破ることができる手段なんだ。
モーツァルトが相応しい。シベリウスも相応しい。

 

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