シューリヒト&ウィーン・フィルのブラームス交響曲第2番ほかを聴いて思ふ

brahms_2_violin_schuricht_ferras秋深まりゆく神無月。台風が迫る。
地表を叩きつける激しい雨の音とシューリヒトのブラームスの二重奏。この規則性は、外面的にザッハリヒな音楽を奏でる稀代の指揮者の思念と一致する。そして、内なる情熱はいわば台風のもつエネルギーと同質のものだ。
ピエール・モントゥーの柔和で温かいものと違う。そしてまた、ハンス・クナッパーツブッシュの悪魔の雄叫び的表現とも異なる。それでいて、彼らと共通するのは「ひとつの理想を信奉する力」が備わっていることだ。モントゥーも、クナも、そしてシューリヒトも「古典の美」をそれぞれの方法で追究した。

ブラームスの第2交響曲第1楽章アレグロ・ノン・トロッポ、シューリヒトは冒頭から音楽を前へ前へと誘導すると思いきや第2主題ではテンポを落とし、歌う。この自然な転換が驚くほど緻密で、その上、金管のフォルティシモでの咆哮が堂に入る。第2楽章アダージョ・ノン・トロッポの神妙な入りが(何という哀しみ!)、聴く者を夢の世界に誘う。第3楽章アレグレット・グラツィオーソのほのぼのとした響きは清涼剤的役割を果たし、続くプレスト・マ・ノン・アッサイで思いの丈を発し、輪舞する。極めつけは終楽章アレグロ・コン・スピリートの躍動感!!

ブラームス:
・交響曲第2番ニ長調作品73(1953.6録音)
・ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77(1954.4.19&20録音)
クリスティアン・フェラス(ヴァイオリン)
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

当時20歳のフェラスを独奏に迎えたヴァイオリン協奏曲の、速めのテンポで颯爽と繰り出す冒頭オーケストラ部からしてシューリヒトの独壇場。若きフェラスのヴァイオリン独奏は、よく歌い、艶やかで深みがあり、とてもその年齢には思えない。おそらくシューリヒトの堂々たる波動が彼をそこまで押し上げたのだろう。とはいえ、フリッツ・クライスラー編曲によるカデンツァの懐かしい音色に若きヴァイオリニストの自信を感じとる一方で、僕には、その裏にある、彼が49歳で投身自殺をせざるを得なかった哀しみ、あるいは抑鬱が垣間見えるのである。ここにこそある負の美学。
第2楽章アダージョ冒頭、オーボエによる主題のあまりの美しさよ・・・。そして、踊る第3楽章でフェラスとシューリヒトはひとつになる。

いずれにせよ、シューリヒトの思念あってこそのブラームス。
これらの演奏の特長をもっとも端的に表すのは、ヘルベルト・シュナイバーがクーリエの音楽時評に寄せたシューリヒトへの讃辞だ。

彼は存在のすべてを古典に捧げた。破壊されることのない顔立ちをした美にである。その顔立ちは、痛みにあっても高貴さを、絶望にあっても偉大さを、悲しみにあっても威厳を湛えているがゆえに破壊されることがない。
ミシェル・シェヴィ著/扇田慎平・塚本由理子・佐藤正樹訳「大指揮者カール・シューリヒト生涯と芸術」(アルファベータ)P338

僕は思う。シューリヒトが古典に身を捧げたのでなく、古典がシューリヒトを選んだのだと。どんなに激しい感情の坩堝でも「形式美」をここまで正当に維持することのできた天才は他にはいない。

 

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