クナッパーツブッシュ&ミュンヘン・フィルのワーグナーを聴いて思ふ

wagner_rienzi_knappertsbusch_munchen008地球上のあらゆる創造物には、有機、無機の棲み分けが存在するが、音楽といういわゆる時間&空間芸術にもそのことは当てはまるのかも。そう、世の中には色気のない、いかにも機械的な演奏も多いが、一方、たとえ古い録音からであったとしても、明らかに命が宿る演奏というものもある。
もしもこの人の実演を、中でもワーグナーの音楽を聴いていたらば僕はどうなっていたことだろう。

クナッパーツブッシュの場合は色気を通り越す。もっと根源的な生命に関わる、ほとんど生物のようなうねりと蠢き、そして呼吸で聴く者を圧倒する。結果、僕たちの魂は途方もない世界へと誘われることになる。ワーグナーの比較的初期の形骸化した浪漫的創造物が命を取り戻す。最晩年の何という再生芸術。

クナッパーツブッシュはほとんどワーグナーの精神と同化する。フルトヴェングラーがあくまで「主観」のみで音楽を造るのに対し、この人は作曲者同様知らず知らずのうちに「客観」という視点で音楽を見、造るのである。

ワーグナー:
・歌劇「リエンツィ」~序曲
・歌劇「さまよえるオランダ人」~序曲
・ジークフリート牧歌
・歌劇「ローエングリン」~第1幕前奏曲
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1962.11録音)

残響の少ない録音によってクナのワーグナーが「ありのままの姿」をさらけ出す。

ある芸術家が自作を前にして、もしそれが真正の芸術であったならば、それが判じ物のように思われて、その作品について彼自身も他人同様に思い違いをしているかも知れないと感じられることがある。そんな場合、作者が直感的に感じていることがまったく他人によって完璧に表現されるということも予想されるのではないか?

レッケルへの手紙にこう書いたワーグナーの真意をバーナード・ショーはかくのように分析する。

盲目的な本能の産物を、論理的構想の帰結と見なすことによって、我々は天才的な人を神格化しがちなのだ、宇宙の創造力を神格化するように。ワーグナーがいう「真正の芸術」とは芸術家の本能の働きであり、盲目的であることではほかの本能と変わりはない。モーツァルトは自作の説明を求められて、率直に「知るもんか」と答えた。ワーグナーは作曲家であると同時に哲学者でも批評家でもあったから、自分が作り出したものについていつも道義的説明を探し求め、いくつかのめざましい、でもばらばらの説明を思いついたということだ。
ジョージ・バーナード・ショー著/高橋宣也訳「完全なるワーグナー主義者」P172

モーツァルトは真に神とつながる主観の天才だったが、同じ天才でもワーグナーは客観も強いられた。いや、というよりそういう能力を与えられていた。何より19世紀ロマン派の時代というのは産業の発展とも重なり、いわばどんなものにでも論理的説明が求められ、芸術についても科学的視点による解釈が迫られた。音楽を容易に解さぬ一般大衆にまで理解を深めるために。
ワーグナーが時代を席巻できた理由は、もって生まれた彼の「客観性」に依るところが大きい(だろう)。それがまた「舞台総合芸術」というものを生み出した原動力にもなった。

私は告白しよう。私が直感でたどり着いた原理に他人が理詰めの概念を与えてくれ、その助けによって私は自分の芸術作品を明晰に理解するようになった。
~同上書P173

リヒャルト・ワーグナーの、このレッケル宛て手紙の一文に彼の芸術の本質が表現されている。「リエンツィ」も「オランダ人」も、そして「ローエングリン」も何という深さなのだろう。もはや奇蹟としか言いようがない・・・。(できることなら「パルジファル」から「聖金曜日の奇蹟」を録音しておいてほしかった)

 

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