フルトヴェングラーの「パルジファル」&「トリスタン」抜粋(1938年録音)を聴いて思ふ

img007このうねりとエロスの表象は、ほかの指揮者には絶対にないものだ。たとえクナッパーツブッシュであろうと、これほどに内燃するパッションを秘めた妖艶なワーグナーは創造し得なかった。

ワーグナーはドイツ精神以外のものを徹底的に攻撃した。人としての彼の思想はともかく、その音楽は計り知れない深遠さと広大さに象られ、その形すら見えなくなるほど巨大だ。

例えばヘ長調の第八シンフォニーをニ長調の第二シンフォニーと並べて見るがよい。そしてその全然新しい世界に驚愕するが良い。しかもこの世界は全く同じ型式に依って我々にせまってくるのである。
ここに又独逸的素質の特性があらわれる。その素質はすこぶる内的に深く豊かにめぐまれているものであって、如何なる型式をも内面より新たに変形しつつ、その型式に自らの本質を銘記してゆくことを知っているものである。そして変形することによってこの型式は、その外面的瓦解へとおいやられることから守られるのである。独逸人はそれゆえに革命的ではなくして改革的である。またそれ故ににこそ独逸人はその内的本質を告知するために、他の如何なる国民にも見られぬ位数多い豊かな諸型式を保持しさえしているのである。此深く内的な源も仏蘭西人には涸渇している様に見える。それ故に仏蘭西人はその国政に於てもその芸術に於ても彼の諸状態の外面的型式に脅かされ乍ら、直ちにそれらを全く破壊してしまわなければならない様に考えてしまうのである。
リヒャルトワグナー/蘆谷瑞世訳「ベートーベン―第九交響曲とドイツ音楽の精神」P67-68

極めて辛辣な言であるが、ワーグナーはそれほどにドイツ国民の創造力を信じていたということ。しかもドイツ人は革命的ではなく改革的だと断定する。

ここで、ハンナ・アレントの言葉を引用したい。

革命という言葉の本来の意味にも、また、それを最初に政治用語として比喩的に使ったばあいにも、そこには新しさ、はじまり、暴力、つまり、今日の革命概念と密接に結びついているすべての要素は目立って欠如していた。ところが他方、すでに簡単に触れておいたが、この言葉には天文学的用語の含みがもう一つあり、それはこの言葉の現代的使用法に非常にはっきりと残されている。不可抗力性の概念がそれである。
ハンナ・アレント著/志水速雄訳「革命について」(ちくま学芸文庫)P65

「革命」という言葉が、上記の意味を含んで使用されたのは他でもない、1789年7月14日の夜のこと。

しかし、今や強調されているのは、その運動が人間の力では捕捉できないものであり、したがって、それ自身法則であるという点である。ルイ16世がバスティーユ襲撃は反乱であるとのべたとき、彼は陰謀と権威にたいする挑戦を処理する権力とさまざまな手段をまだ自分が持っていることを主張したのである。これにたいしてリアンクールは、起こった事柄は取り返しのつかないものであり、一国王の力を超えているものだと返答したのであった。
~同上書P66

革命とは不可抗力であり、改革は人の手になるものだと。この概念が正しいとするならば、ワーグナーの言うドイツ精神というのはあくまで人間が創出したものであり、その精神を追究したワーグナー音楽は、その意味において極めて人間的でなければならないということになる。ならば、フルトヴェングラーの解釈はあまりに正統だ。
もちろんワーグナーとアレントの間には何の関係もない。よって安易に結びつけるのは危険なことだが、アレントはワーグナーの生まれ変わりなのではないかと疑うほど近い(あくまで僕の感覚だが)。

ワーグナー:管弦楽曲集(第3集)
・楽劇「神々の黄昏」~ジークフリートのラインへの旅(1949.2.23録音)
・舞台神聖祝典劇「パルジファル」~第1幕への前奏曲(1938.3.15録音)
・同上~聖金曜日の不思議(1938.3.15録音)
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」~前奏曲と愛の死(1938.2.11録音)
・楽劇「神々の黄昏」~ブリュンヒルデの自己犠牲(1952.6.23録音)
キルステン・フラグスタート(ソプラノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
フィルハーモニア管弦楽団

何はさておき、1938年の「パルジファル」抜粋と「トリスタン」抜粋の録音は人類の至宝である。これ以上のワーグナー演奏は後にも先にもない。崇高かつ透明でありながら、決して神の境地に至らぬ人間の、「舞台神聖」と名乗りながら極めて肉欲的俗的なもだえ苦しむ「パルジファル」の音楽たち。そして、「トリスタン」の胸をかきむしられるような青白い響きは、それ自体が愛の妙薬。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

フルトヴェングラーは、「パルジファル」全曲を上演しなかったというか、レコーディングも残しませんでした。「トリスタンとイゾルデ」、「ニーベルンゲンの指輪」4部作、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」だけでしたね。

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