東京クヮルテットのベートーヴェン作品132(2008録音)&作品135(2007録音)を聴いて思ふ

beethoven_tokyo_string_quartet030東京クヮルテットのベートーヴェンは透明だ。もともと楽聖の晩年の崇高な世界は、清澄で敬虔な色合いが強いのだが、そういう感覚すら超えてしまうほどの過不足のない「空(くう)」を体現する。これこそ「何も足さない、何も引かない、ただそこに在る」という「世界の果て」のような気が僕にはする。
第2楽章アレグロ・マ・ノン・タントのどこまでも昇天するようなヴァイオリンの旋律を聴いて戦慄を覚えた。こんな作品132は初めてではなかろうかと。これによって続く第3楽章モルト・アダージョの夢見るような癒しの音楽が一層天国的なものに聴こえ、「新しき力を感じつつ」と謳われるアンダンテに天使が舞い踊るかのような喜びへの昇華を見ることが可能になるのだ。

リヒャルト・ワーグナーがコジマに語った言葉に納得した。

湧き上がるインスピレーションに比べれば、紙に書かれたものなど何であろう。即興に比べれば、譜面に記すことにどれほどの意味があろう。書くことは一定の慣習的な法則に制約されるが、想像力は自由であり、限界を知らない。ベートーヴェンの恐るべきところは、最後の四重奏曲群において想像の羽撃くままを書きとめることができたことであって、これは至高の芸術、そのなかでもきわめつけの芸術にのみなし得ることだ。わたしの場合、次々にしきたりを打破し、新たな可能性を切り開いてきたのはドラマだがね。
1870年12月4日土曜日
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P249

言葉はすべてを表し得ない。それゆえ想念、思考を他人に確実に伝えるのが難しいのだ。いわんや感情や感性をや。
となると、現代の音楽創造行為は、作曲者と演奏者の協同作業であり、いかに譜面からイメージを膨らませることができるかが鍵となる。最後期の東京クヮルテットは無駄な力が抜け、本当にイマジネーション豊かな、最晩年のベートーヴェンの世界を現出しているのだとあらためて確信した(昨年のフィリアホールでの作品131のあまりに美しい演奏を思い出す)。

ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132(1825年)(2008.8-9録音)
・弦楽四重奏曲第16番ヘ長調作品135(1826年)(2007.11録音)
東京クヮルテット
マーティン・ビーヴァー(ヴァイオリン)
池田菊衛(ヴァイオリン)
磯村和英(ヴィオラ)
クライヴ・グリーンスミス(チェロ)

しかし何より素晴らしいのは作品135の方。例えば、簡潔で短い第2楽章ヴィヴァーチェの素晴らしさに初めて気付けたというと大袈裟だが、それほどに4人の魂がひとつになってベートーヴェンを奏でている。そのことでまた、第3楽章レントアッサイ,カンタンテ・エ・トランクイロが一層活きる。低音部の伴奏に乗って歌われるヴァイオリンの切ない旋律に思わず涙がこぼれる。ワーグナーが「恐るべき」と表現するのもわからなくもない瞬間だ。
そして、「そうでなければならぬか?」「そうでなければならぬ」の終楽章の、暗澹たる序奏と明朗快活な主部の対比が見事に再現され、死を目前にしたベートーヴェンが、いよいよ世界の明暗がこうやってひとつになるんだと言うが如くの、すべてがここに収斂されゆく孤高を東京クヮルテットに僕は発見するのである。

 

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