フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第7番&第8番(1953.4.14Live)を聴いて思ふ

beethoven_7_8_furtwangler_1953414064文豪ゲーテが「ファウスト」においてメフィストフェレスを登場させたことは必然だった。この二元の世界には善があれば悪があり、表があれば裏がある。その二元を超えることこそが人間界、そして現実世界での僕たちの修業なのである。
「ファウスト」第2部、最後の「神秘の合唱」。

なべて過ぎ行くものは
比喩に過ぎず。
地上にては至らざりしもの
ここにまったきものとして現れ
およそ言葉に絶したること
ここに成就す。
永遠なるものにして女性的なるもの
われらを彼方へと導き行く。
ゲーテ著/柴田翔訳「ファウスト下」P512-513

ゲーテとベートーヴェンの邂逅が、1812年7月19日、テープリッツにおいてついに成った。楽聖は「賛同の重要性」を文豪に問いかける。

神がなお我に数年の歳月をかすならば、最愛なる、愛する友よ、わたしは御身に再び会わなければならぬ。いつもわたしを正しく導いてくれる声がそれを求めているのです。精神は互いに愛し合うことも出来ます。わたしは常にあなたの精神を得ようと努めるでしょう。あなたが賛同して下さるのが世界中で一番好ましいのです。賛同というものがわれわれのような者にどんなに大きな働きをするものか、わたしの考えをゲーテに話しました。
~小松雄一郎訳「ベッティーナ・フォン・アルニム(旧姓ブレンターノ)への手紙」(1812年8月)

そもそも世の中には男と女しかなく、しかもそれらがまったく性質の違う別種の生き物であることをベートーヴェンはわかっており、それであるがゆえに彼は女性なる感性を求め続けた。そして、この悩み多き「世界の矛盾(=二元)」を表出し、自己の内で解決するために彼はこの時期2つの交響曲を書いた。それがワーグナーをして「舞踏の聖化」と言わしめた第7交響曲であり、その相反する応答としての第8交響曲だったというわけだ。確かにゲーテからの影響は多大だったはず。

ちなみに、リヒャルト・シュトラウスの父フランツは、ことのほかワーグナーを嫌い、その萌芽がすでにベートーヴェンの第7交響曲終楽章にあると言った。なるほど、さすればこの作品はメフィストフェレスの体現であり、デモーニッシュな表現が求められる傑作と言えまいか。
最右翼の盤、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを聴く。

ベートーヴェン:
・交響曲第7番イ長調作品92
・交響曲第8番ヘ長調作品93
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1953.4.14Live)

最晩年の演奏であるがゆえ、非常に冷静なフルトヴェングラーが在る。踏み外しはなく雄大にベートーヴェンの世界を描き出すが、それでも悪魔的な側面は相変わらず色濃い。そう、必要悪としてのメフィストがここに在るのだ。

その上、であるがゆえ、二卵性双生児、天使の第8交響曲が一層活きる。交響曲第8番は、まさにゲーテが描いた「永遠なるものにして女性的なるもの」の体現であり、太陽の化身なのである。フルトヴェングラーの演奏は重厚にして、第7交響曲の魂を引き摺る。それもまた良し。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


日記・雑談(50歳代) ブログランキングへ


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む