あるがまま自然に

schuricht_eroica.jpg今年の新卒採用戦線は、特に大手の場合4月から本格的に動き出している企業も多く、ちょうど今頃佳境を迎えている。今夜も「第9回就活講座」を開催し、参加していただいた若干名の学生には伝えたのだが、最終的には恣意的にではなくいかに自然に自分自身を表現できるか、そして伝えることができるかであるということをほぼ最後のポイントとして提示した。今の時代はとにかく人と違わないこと、なるべく人に合わせることをモットーに教育を受けてきた若者が多い。就職活動の際にも同じようなスーツを着て、面接官の質問に対しては同じような優等生的な答えを返してくる。確かに間違ってはいないのだが、まるで個性が感じられない。自分というユニークな存在をアピールするには、自分がやってきたことや感動をいかに素で伝え、相手とキャッチボールするかしかない。マニュアルなど糞食らえぐらいのポリシーを持ったほうが良い。この期に及んでジタバタしても始まらないのだ。「あるがまま」を「あるがまま」に。

久しぶりに特製菜食ラーメンを作り、学生諸君に食べさせてあげた。皆喜んだ。とにかく真面目な講座の後、馬鹿話をしながらワイワイがやがやと盛り上がることは楽しい。

ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1964.10Live)
カール・シューリヒト指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

巨匠晩年のライブ録音。つい先年テスタメント・レーベルより発掘された音盤である。昨日も一昨日もシューリヒトについて書いてきたが、この「英雄(エロイカ)」は極めつけである。80代の演奏とは思えない颯爽たるテンポ。それでいて無意味な音が一つもないボリューム感のあるベートーヴェン。一聴何もしていないかのように聴こえるその演奏の真髄は、大器晩成の巨匠が死を数年後に控えて達観したかのような「作曲者の魂の自然なあるがままの音化」にあると思う。これまで僕にとって「英雄(エロイカ)」のベストはフルトヴェングラーの1944年ライブであり、1952年スタジオ録音盤であった。音の良し悪しを超えて訴えかけてくる必然性はフルトヴェングラー以外誰も為しようのない芸術だと30年間決めつけてきたようなものである。しいて言うなら、朝比奈隆の1989年の新日本フィルとの実演がそれを凌駕するようなものであったのだが。今日の午後、いつものように新宿南口でカウンセリングを終えた後、ついつい気になってこのCDを購入したのだが、全く驚きである。最近でこそこの楽曲を聴く機会がほとんど無くなっていたのだが、初めて聴いたときの新鮮さが蘇ってきた。それくらいに衝撃的な演奏なのだ。

人間最後は「自然」にふるまえた者勝ちである。無理をしてもしょうがない。嘘をつくのはなおさらだ。シューリヒト万歳!である。

When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
LET IT BE

The Beatles

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