午前4時と午前0時に「調和」について考える

今の時期、朝の6時前だと外はまだ薄明るい。合気道の稽古に向かう道中、ようやく光が感じられるようになり、道場に着いた頃には東の空から太陽が燦々と輝く姿が浮かび上がる。その時、窓から差し込む光が何とも神々しくて生きているという実感が湧き、同時に起こるすべての事柄に感謝、出逢うすべての人々に感謝、そんな念が沸々と蘇る。
「自分以外のもの」に感謝するという気持ちは本来誰の内にもあるもの。ところが、やっぱり「不安」がそのことを封じ込めてしまう。結局はすべてが自分であり、自分がすべての1パートなんだと理解すれば許せるのに。

20世紀の音楽を聴いていて、若い頃は真に理解できなかったその意味を受け容れることができるようになっていると知り、我ながら驚きを隠せない。無調の世界は混沌としている。でも、その混沌こそが調和であり、その中にこそ自由があるのではと気づいた。例えばシェーンベルクが提唱した十二音技法。平均律の12の音すべてを均等に使用して楽曲を構成するというその考え方がそもそも斬新で素敵。それに、理屈でなく実際音を聴いてみると何とも定まらない不思議な浮遊感と、といってもどこか見知らぬところにまでは飛んでいきそうもない安定感が混在し、一度そのツボにはまれば抜け出せないほどの魅力をもつ。
なんだかすべては平等で、ひとつでつながっているんだという宇宙、自然の摂理を連想せざるを得ない。

ベルク:
・弦楽四重奏曲作品3(1910)
・弦楽四重奏のための「抒情組曲」(1925/26)
アルバン・ベルク四重奏団

作曲技法のことはとりあえず横に置いておく。
それより、作品3のカルテットが生み出された背景に注目したい。遺作となるヴァイオリン協奏曲同様、たった2つの楽章で構成されているこの音楽は、ベルクが恋人ヘレーネ・ナホツキーとの結婚を彼女の父親に反対(ベルクが病弱なことや作曲家という職業について不安をもっていたらしい)されている中、そういった障害を乗り越える意図をもって書かれたものであるらしい。怒りと悲しみと、反抗心と愛情と、叫びと囁きと、あらゆる感情が混然一体となって表出する音楽は、繰り返し耳にすることで僕の中にもある様々な感情的記憶を呼び覚ます。

ロベルト・シューマンがクララとの結婚の際に彼女の父から猛反対を受けながら遂には思いを成就したのと同じく、芸術家の意志は固く、深かった。結局、アルバンとヘレーネは初演(1911年4月24日)の翌月に結婚することになる。そう、壁は乗り越えるためにあるのだ。

夜、皆が寝静まった頃に音楽に耽ること、読書に思索することは望外の幸せなり。
早朝と深夜の対比。その2つが交わる一点にこそ調和がある。人とコミュニケートすること、自分を内観すること、そのバランスが大事。


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む