若杉弘指揮都響のワーグナー交響曲ハ長調&ホ長調を聴いて思ふ

wagner_symphonies_wakasugi159大自然に触れると心が和み、軽やかになる。
ライプツィヒの聖トーマス教会カントルであったクリスティアン・テオドール・ヴァインリヒの下での作曲修行時代、19歳のリヒャルト・ワーグナーは1曲の交響曲を書いた。
最後のヴェネツィア旅行の最中、1882年12月24日、愛妻コジマの誕生日にワーグナー自身の指揮でフェニーチェ劇場にて再演されたこの作品は、ワーグナー唯一の完成された交響曲であり、尊敬するベートーヴェンの作品を規範とするものであった。
残された生命が2ヶ月足らずであったことは知る由もなかった彼は、その時何を想ったのか?
自然を愛したワーグナーが水の都ヴェネツィアを再演の場所として相応しいと選んだことは間違いなかろう。しかしながら、もうひとつ、血気盛んで色恋好きのワーグナーが、コジマのためというより青春時代の一情景を思い出すかの如く自身のために引き出しの奥から古びた作品を引っ張り出してきたのだと考えられはしまいか。あくまで勝手な憶測だけれど。

1883年2月13日のワーグナー急逝は、おそらく女性問題を巡る当日朝のコジマとのやりとり、諍いが遠因となっているのではないかという推測があることは先日も書いた。最晩年に彼が、無意識とはいえ、青春時代の妖艶な時代を懐古すると同時に、色気からあらためて自身をアピールしようとしたと考えるのは過ぎたことかもしれない。
しかし、それほどにこの交響曲は堂々たる外観を持ち、色香豊かで見目麗しい。

ワーグナー:
・交響曲ホ長調WWV35(1834)
・交響曲ハ長調WWV29(1832)
若杉弘指揮東京都交響楽団(1992.7.13-15録音)

ハ長調交響曲第1楽章ソステヌート・エ・マエストーソ序奏の、何とも雄大で堂々たる風格、そして提示部のどこかシューベルトの大ハ長調交響曲を思わせるニュアンス豊かな歌に若きワーグナーの天才を思う。
第2楽章アンダンテ・マ・ノン・トロッポ・ウン・ポーコ・マエストーソの冒頭に、「パルジファル」の微かな断片を聴く。ヴィオラとチェロのユニゾンによって歌われる主題の、何とも歌謡的な音調はいかにもワーグナーらしくないものだが、悠揚たる足取りに後年の彼のイディオムが感じとれる。10代のリヒャルトもやはりリヒャルトだったということ。
そして、第3楽章アレグロ・アッサイ主部の簡潔な力強さとトリオの柔和でナチュラルな響きの対比!終楽章アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェは非常に明快な旋律に溢れ、実に若々しい音楽が奏でられる。

ワーグナーがもしもこのまま交響曲作曲家としての道を歩んでいたとしたらその後の音楽史はどうなっていたのか?シューマンやブラームス、あるいはブルックナーに匹敵する作曲家になっていたかもしれないし、逆にそれによって数多の傑作楽劇が残されなかったということも考えられる。どちらが良かったかなどという野暮な問いかけは止そう。少なくともワーグナーにとって1830年代中頃以降にもはや純粋交響曲という形態は魅力的でなくなったことは事実ゆえ。
とはいえ、もしまだ彼に時間が与えられていたなら、「パルジファル」後に純粋な交響曲が生み出されていた可能性もなくはない。今日のところはそんなワーグナーの真の交響曲がもし存在したならという空想に浸るだけにしておこうか。

ちなみに、再演から数日後、ワーグナー自身による「青年期作品の再演に関する報告」と題する文章には次のようにあるそうだ。

もし、この作品のなかにリヒャルト・ワーグナーらしさを認めるとすれば、それは、のちに現れてきた、ドイツ人にはなかなか克服しにくい偽善的姿勢に毒されず、すでに当時から脇目もふらずに自分を貫いたことだろう。
~三宅幸夫氏による曲目解説より

どんな作品を書こうとも自分は自分だという自負が垣間見られる。どんなに傲慢であろうと彼は真の天才なり。ハ長調の2年後に書かれ始めたホ長調の方も、実に浪漫的明朗な旋律に満ち、美しい。
若杉弘が亡くなってもう6年近くが経とうとする。そういえば、朝比奈御大が亡くなった翌年の大フィル東京定期は若杉の代理指揮によるブルックナーの3番だったけれど、まるで朝比奈隆が指揮するような演奏だったことを思い出した。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

この交響曲の初演を聴いたクラーラ・ヴィーク(後にシューマン)は、ローベルト・シューマンに、
「あなたはヴァーグナーに負けたのよ。」
と言いました。クラーラは早く、ローベルトに交響曲を作曲してほしかっただろうと思いましたね。クラーラは、ローベルトこそ素晴らしい交響曲を書けるだろうと信じていたからでしょう。
もっとも、シューマンとヴァーグナーは人間的にはウマが合いませんでした。シューマンは、一方的に喋り捲るヴァーグナーを嫌っていました。クラーラもそうだったようです。それでも、「タンホイザー」にはヴァーグナーが天才だと認めていました。ただ、時代が生んだ天才とは認めていなかったようです。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
数多の天才音楽家たちが生れた1830年代の欧州音楽界というのは実に興味深いですね。
そうですか!クララはロベルトにそんなことを言ったのですね。
とはいえ、ロベルト・シューマンの交響曲はやはり独自の世界であり、ワーグナーとは比較できない代物だと思います。

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