エイヴィン・グルベルグ・イェンセン指揮読響第548回定期演奏会

yomikyo_20150513200二枚舌の所以か、これほどにカルマを背負った音楽は他になかろう。実演で耳にするショスタコーヴィチは、たとえそれがどんな演奏であろうとまったくスキがない。

人間は誰しも自由になりたいと願う。とはいえ、皆過去の体験に縛られ、今の思いに左右される。ましてや属する組織(国を含めて)からの外圧がある場合のプレッシャーとなるとその重圧たるや計り知れない。
かつてソビエト連邦という国にあって抑圧されし民衆は、それを解放する術として芸術に寄り添った。ドミトリー・ショスタコーヴィチの作品には、いずれもこの鬱積からの解放がある。レニングラード交響曲は社会主義リアリズムに準じた予定調和的名曲である。

アンドレアス・シュタイアーの奏でるモーツァルトに、ショスタコーヴィチを思った。やはりこの20世紀の天才は18世紀の神童の衣鉢を継ぐ。何という濃厚で浪漫的なモーツァルトであったことか。第1楽章冒頭、オーケストラ提示部から全盛期のモーツァルトの「遊び」の精神が炸裂する。ピアノ独奏部の何とも確信に満ちる響き。そして、提示部から展開部に移るその瞬間の得も言われぬ閃きに心動かされる。木管群のニュアンス豊かな調べにも恍惚。カデンツァの哀しげな響きには畏れ入った。
今宵の協奏曲のクライマックスは第2楽章アンダンテ。何よりシュタイアーの、芯のしっかりしたニュアンス豊かで透明なピアノに涙を禁じ得ない。さらに、悦びの終楽章アレグレット―プレスト。まさに珠玉の右手と魔法の左手!!旋律の妙なる美しさと強調される低音部の有機性。見事であった。
ちなみに、シュタイアーの弾くアンコールでのK.330第2楽章には参った。あまりの響きの美しさ、そして音の移ろいの微妙な変化に感動。それこそ繊細な息遣いと、タメの巧さ。ここでのモーツァルトは囁き、心なしか泣いていたよう。神童が哀しみに埋もれたのである。

読売日本交響楽団第548回定期演奏会
2015年5月13日(水)19時開演
サントリーホール
アンドレアス・シュタイアー(ピアノ)
長原幸太(コンサートマスター)
エイヴィン・グルベルグ・イェンセン指揮読売日本交響楽団
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番ト長調K.453
~アンコール
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330~第2楽章
休憩
・ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」

休憩後の「レニングラード交響曲」。第1楽章アレグレットから速めのテンポで勢いあり、音楽は前のめる。静寂と爆発が交差し、この一大戦争交響曲がいかに戦中当時の民衆を鼓舞するものだったかが手に取るようにわかった。第2楽章モデラートの、中間部における爆発的轟音は相変わらずのショスタコーヴィチ節だが、とはいえ、音楽は少々うねりを失くし、弛緩した部分もあった。真に残念(それにしても、首席フルートの倉田優さんの独奏は抜群に巧い)。
第3楽章アダージョでは、コラール風冒頭から勢いを取り戻し、流麗な弦楽器群と清澄なフルートに支えられ、美しい音楽を創出した。何よりコーダの戦死者を弔うか如くのレクイエムにひれ伏してしまった。
そして、いよいよアタッカで一気にまくし立てられるような終楽章アレグロ・ノン・トロッポ。コーダでの第1楽章の主題が回帰されるシーンのカタルシスはもはや言葉にならぬほど。

そういえば、第1楽章「戦争の主題」の阿鼻叫喚も見事なもの。
今夜の聴衆は実にお行儀が良かった。フライング・ブラヴォーなし。数秒の静寂の後の大喝采。本当に素晴らしかった。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

モーツァルトとショスタコーヴィチの取り合わせですか。昨年のゲルギエフ、マリインスキー劇場管弦楽団ではブラームスとショスタコーヴィチの取り合わせでしたね。

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