いつぞや荒井英治さんはショスタコーヴィチの音楽をロック・ミュージックだとおっしゃっていたが、ムラヴィンスキーの演奏を聴いてその意味を一層実感する。
ほとんど暴力的ともいえる音の塊が、肺腑を抉る熱波となって聴く者の耳をつんざく。
「ロック」がいわゆる体制への反抗の象徴であったのと同様に、自身の内に蠢く社会主義国家への二枚舌的闘争。例えば、作曲者自身が「スターリンの肖像」と言ったとか言わないとか、第2楽章アレグロの恐るべき音楽のうねりと咆哮は、英雄スターリンをぶっ壊すかのような爆発力を秘める(実際に直前に亡くなった英雄を音楽の力で見事に葬り去るかの如く)。
第1楽章モデラート冒頭の、弦による静謐で叙情に溢れる音楽は、ショスタコーヴィチのもうひとつの側面を表わす。これこそ尊敬すべき指導者への葬送の歌。
スターリンの死に際して、ショスタコーヴィチは深い悲しみ、そして、新たな戦争を阻止し、世界中の労働者の間に友情を育むために指導者がなした、すべてのことに対する感謝、さらには何ものも共産主義の勝利の妨げとはなりえないという永続的な信念を示したが、この「公的」な感情はすぐに世間に向けて発表された。
~ローレル・E・ファーイ著 藤岡啓介/佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチある生涯」(アルファベータ)P240-241
括弧書きの「公的な」という単語がミソ。もちろんそれは亡き同志への哀悼の意であることに違いはない。しかし、その後の音楽の展開、発展を考えると、どちらかというとスターリンの死を契機に未来の勝利がはっきりと彼の目には見えていたかのように映る。ここに在るのは喜び。
・ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調作品93
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1976.3.3Live)
この演奏には、7ヶ月前に逝去した作曲者への深い尊敬の念が刻まれる。
ムラヴィンスキーは泣いているようでもあり、怒りに肩を震わせているようでもある。しかし、最後は哄笑する。
第3楽章アレグレットの、(ピッコロ、フルート、オーボエによる)有名な自署の刻印(D-Es-C-H)の、レニングラード・フィルならではの緊密で意味深い滑稽な音調に、そして、中間部のホルンによって繰り返される主題の服喪するような響きに、交響曲第10番という巨大な作品の真意を感じずにいられない。
さらに、終楽章アンダンテ―アレグロの複雑に入り乱れる喜怒哀楽の表情に、スターリンの最期の一瞬を思う。
最後の一瞬、断末魔の苦しみが父を襲いました。父は左手を挙げ、突然目を開き、数秒間、周囲を見まわしました。それは、恐ろしい目、狂った目、怒っている目、死を恐れている目、知らない医師の顔を恐れた目・・・そんな目でした。次の瞬間、魂は最後の踏ん張りで父の体から飛び出していきました。私も自分の息が止まる思いで側の女医の腕に夢中ですがりついていたのでした。
「友人への20通の手紙」
~斎藤勉著「スターリン秘録」(産経新聞社)P357
死とは恐ろしいもののように描かれているが、必ずしもそうではないことを作曲者は表現し、指揮者は再現するのでは?ここにショスタコーヴィチの天才とムラヴィンスキーの天才を重ね合せる。
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