ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管のベートーヴェン交響曲第6番(1981.1録音)を聴いて思ふ

架空と現実の間を彷徨う夜明けの夢から醒めたときの、何とも言えぬ不思議な感覚。
それこそ過去の記憶が、それまでかかわった場所や人が、吃驚するくらいに入り乱れてそこに登場するのだから面白い。
おそらくそのとき僕は、自らの身体を離れて自分自身をどこかから見つめていたのかもしれない。幽体離脱とはいわないまでも・・・。

武満徹さんは「この世界が語りかけてくる声に耳を傾けることのほうが、ずっと、発見と喜びに満ちた、確かな、経験だ」とおっしゃられた。世界というよりここは、大自然、大宇宙がと言い換えても言い過ぎではないように僕は思う。

何年か前、朝早くのラジオから流れる、クルト・ザンデルリンクがケルン放送交響楽団を指揮して録音した「田園」交響曲を聴いて吃驚した。あの生々しく肉感的でありながら自然と見事に一体になる音楽に、それこそ目が覚めた。
「一体これは誰の演奏なのだろう?」
夢から現実に引き戻すほどの引力の強烈さと、それが繰り返し聴かれることを前提にしない、放送局がソースの実況録音であったことの驚き。天才だと思った。

ベートーヴェン:
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1981.1録音)
・歌劇「フィデリオ」序曲作品72b(1981.2.4&6録音)
・「エグモント」序曲作品84(1981.2.4&6録音)
クルト・ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管弦楽団

さすがにスタジオでの(アビーロード・スタジオ!)ザンデルリンクは大人しい。整った、否、整い過ぎた表現に物足りなさを覚えなくもないが、それでも彼の指揮する「田園」は別格だ。特に、第4楽章「雷雨、嵐」の、決してうるさくなく、壮絶とは言い難い表現に、むしろ大自然の偉大さを痛感するのは僕だけか?また、続く、涙ながらに聴けぬ終楽章「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」のコーダ直前の頂点の恍惚の、他にないカタストロフィ。直後の結尾の寂寥感は何ものにも代え難い。何という美しさ、何という素晴らしさ。
堂々たる「フィデリオ」序曲に感無量。
あるいは、苦悩を排除した明朗な「エグモント」序曲に心奪われる。

旅行から戻って、十日程を、山の仕事場で過ごす。唐松の葉が、間断なく、雨のように降っている。「雨ノ日ニモ、風ノ日ニモ、空カラハ棘ガ降ル」と、安部公房がうたったのはまさか、この光景ではないだろう。こんな生易しいものである筈はない、と思ったが、晩秋の、寂寥感を誘う気配の中で、ふと、このうたの旋律が口に登ったのだった。
「毎日新聞」夕刊1994年12月12日
「武満徹著作集3」(新潮社)P260

なるほど、寂しさとは秋の特許なのだ。
今は桜咲く春。
雨の広島に思う。

 

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