挫折や悲しみや、そういうものを通じて人は成長する。人生というものは右肩上がりでも下がりでもなく、ましてや平坦では決してないわけで、それゆえに面白い。そのことは誰しもいずれ経験するだろう。あの時のあれはあれで良かったんだと。とはいえ、当事者のその時の苦悩というのは並大抵でないこともよくわかる。でも、よく考えてみよう。前進しているからこそ問題が起こるんだ。挑戦するから失敗もあるんだ。
最晩年のモーツァルトの諸作品を聴きながらいつも僕は思う。確かに表面上は愉悦の極みでありながら、そして美しい旋律の連続でありながらどこか虚ろで、どこか哀しげという調子。それはひょっとすると繰り返し聴き込まなければわからないものなのかもしれない。しかし、古今東西まるでポピュラー音楽のようにこれほど愛好されるクラシック音楽が他にあろうか。誰しも彼の音楽に心動かされ、心癒され、そして元気になる。
歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」とほぼ同時期に生み出されたクラリネット五重奏曲。僕の中では、モーツァルトの諸作の中で5本の指に入る傑作。これほど「涙に濡れる」音楽はない。
1789年のモーツァルトを振り返る。この時期は相変わらずの経済的困窮が続き、パトロンへの金の無心の手紙がいくつか残される。秋には第5子が生れるも1週間ほどで亡くす。とはいえ、春先の旅行におけるライプツィヒでのバッハ体験は大きかった。信仰を呼び覚ますバッハの知性に触れたことがそれらの出来事の苦しみからの解放を後押しし、モーツァルトの芸術を一層深化させたことは間違いなかろう。
例えば、モーツァルトが痺れたといわれるバッハのモテット「主に新しき歌を」BWV225の敬虔な祈りと神への崇高な念。きっと自身も救われることを信じていた・・・。
父がその子を
憐れむように
主は私たちすべての者を憐れんでくださり、
私たちは主を畏れ尊ぶ。
主は貧しい被造物をご存知だ。
神は私たちが塵に過ぎないことを知っておられる、
熊手にかかる草のようなもの、
(はかない)草花、地に落ちる木の葉。
風がその上に吹くだけで
それは姿を消してしまう。
人はそのように過ぎ行き、
その終わりは目の前にある。
苦しい時の神頼み。おそらくこういう体験が帰国後の創作活動に十分な慈みをもたらしたのだろう。そして、敬虔な祈りと崇高な念がかの曲に転写されたのだ。
モーツァルト:
・クラリネット協奏曲イ長調K.622(1984.7録音)
・クラリネット五重奏曲イ長調K.581(1984.12録音)
デヴィッド・シフリン(クラリネット)
ゲルハルト・シュヴァルツ指揮モストリー・モーツァルト・オーケストラ
チェンバー・ミュージック・ノースウェスト
クラリネットの音というのは低音から高音まで変幻自在で何とも美しい。なるほど上手な奏者の演奏を聴いたらばインスピレーションに溢れること間違いなし。真に魂の浄化音楽。
※過去記事/2007年7月23日:「魔法の木管」
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