ヨッフム指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン「田園」交響曲(1954.11録音)を聴いて思ふ

eugen_jochum_symphonies192その仄暗い音調と、誰かを悼むような悲哀に溢れる「田舎に到着したときの朗らかな感情の目覚め」。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが世を去るまさに2週間余り前に、ベルリン・フィルによって録音された楽聖の「田園」交響曲は、フルトヴェングラーの解釈をそのままなぞるかのように(まるで誰かを葬送するかの如く)極めて遅いテンポで奏されながらも、僕たちに厳粛で崇高な「愉悦」を与えてくれる。
そして、第2楽章「小川のほとりの情景」では、自然を愛するベートーヴェンの想念とフルトヴェングラーの人間への愛着が同期するかのように、粘着質でありながら実に崇高な讃歌が繰り広げられる。例えば、ナイチンゲールが囁き、鶉が語りかけ、そして郭公が鳴くコーダのあまりの美しさに、カラヤン時代とは異なる深みのあるベルリン・フィルの音に心動かされるのである(何より6日もかけてこの作品が録音されたことが驚き)。

音楽は、一切の智慧・一切の哲学よりもさらに高い啓示である。・・・私の音楽の意味をつかみ得た人は、他の人々がひきずっているあらゆる悲惨から脱却するに相違ない。
(1810年、ベッティーナに)
ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P135

ほとんど覚者の言葉である。ベートーヴェンが、音楽によって人々の魂を救おうとしていたことがわかる。

そのことを心から理解し再現しようと試みたのがまさにフルトヴェングラーであり、あの時点でその衣鉢を継ぐべきはひょっとするとオイゲン・ヨッフムその人であるべきだったのかもと、1954年11月にベルリンのイエス・キリスト教会で録音された「田園」交響曲を聴いて思った。

最も素晴らしい瞬間は、終楽章「牧人の歌、嵐の後の悦ばしい感謝の感情」の、音楽が最高潮に達した直後の、自然なブレーキと深沈たる祈りに溢れるコーダ。完全無欠とはこの部分を指して言うのだろうか。

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67(1959.4.25-27録音)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1954.11.9, 10, 12, 13&16録音)
オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

描写は絵画に属することである。この点では詩作さえも、音楽に比べていっそうしあわせであるといえるであろう。詩の領域は描写という点では音楽の領域ほどに制約せられていない。その代わり音楽は他のさまざまな領土の中までも入り込んで遠く拡がっている。人は音楽の王国へ容易には到達できない。
(ヴィルヘルム・ゲルハルトに)
~同上書P37

何とベートーヴェンは単に自然や宇宙の外観だけを描こうとしたのではない。人間の目には見えない霊的なもの、その心象までを音化しようとしていたのである。ちなみに、ヴァイオリニスト、シュパンツィヒが「ベートーヴェンの作曲するヴァイオリン曲は良い音に弾きにくい」と不平をこぼしたのに対しベートーヴェンはこう答えたという。

「霊」が私に語りかけて、それが私に口授しているときに、愚にもつかぬヴァイオリンのことを私が考えるなぞと君は思っているのですか?
P136

もはやベートーヴェンは人間ではなかった。

 

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