ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管のベートーヴェン交響曲第8番を聴いて思ふ

beethoven_symphonies_sanderling_philharmonia090イマヌエル・カントは「万物の終焉」の中でかく語る。

人間の手によってもたらされる万物の終焉は、その目的が善きものであっても、愚かしいものである。というのは、人間が目的を実現するために利用する手段が、その目的に反しているからである。智恵とは、万物の究極の目的である最高善に完全にふさわしい方策に適した形で、実践的な理性を働かせる能力であり、これは神にしかそなわっていないものなのである。だから人間の智恵と呼べるものは、せいぜい理念にあからさまに反するふるまいだけは避けることにすぎない。そして人間が愚かしさに陥らないようにふるまうことは至難の業であり、人間はさまざまな計画を試みつつ、しかも計画を頻繁に変更することで、どうにかこれを避けることを期待できるだけである。
カント著/中山元訳「永遠平和のために/啓蒙とは何か他3編」(光文社古典新訳文庫)P131

そもそも人間には限界があることが前提になっているが、果たして僕たち人間が神の境地を体得できるならこの論は覆るのだろうか?般若心経にある如く、ひとりひとりが自らの内なる神につながれるなら世界は真に革まるのだろう。

ベートーヴェンが希求したのは真の平和であった。交響曲第9番ニ短調作品125の終楽章合唱において「抱き合おう、諸人よ」と声高らかに歌わせた彼の本意が、そこにあったことは間違いなかったと言えるのだが、しかし言語で表現しようとしたことは決して正しいとは言えなかった。言語は壁や境界を作るものだから。おそらくそのことをベートーヴェンは十分にわかっていたはず。
にわか仕上げっぽい「歓喜の歌」はやはりこの作品にはそぐわない。前3つの楽章とのアンバランスさがそのことを物語る。

その意味で、ベートーヴェンが真に悟りを得たのは交響曲第8番ヘ長調作品93においてではなかったか。この可憐で簡潔な交響曲のうちには自然が漲る。かの「田園交響曲」が自然の叙事的描写であるとするなら、同じヘ長調の第8交響曲は自然の抒情的描写だ。
ベートーヴェンが自然という芸術を愛した理由が大哲学者カントの偉大なる言葉によってまさに示されるのである。少なくともベートーヴェンはその時点で神の境地を体得していただろう。

ベートーヴェン:
・交響曲第7番イ長調作品92
・交響曲第8番ヘ長調作品93
クルト・ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管弦楽団(1981.1.8-10&12-17録音)

重心の低さと客観性。しかし、決して薄味でなく厚みのある音響と流れる音楽の崇高さに魅了されるクルト・ザンデルリンクの力量。情感豊かに、その上極めて自然に音楽を再現するザンデルリンクは職人の中の職人である。
ヘ長調交響曲第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・コン・ブリオの、主題提示瞬間の自然な爆発力!!
楽章を追う毎に一層溢れる人間感情の豊かさ(第2楽章アレグレット・スケルツァンドの神々しいばかりの愉悦、そして第3楽章テンポ・ディ・メヌエットの確信に満ちながらどこかに匂わせる哀愁、さらに終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェにおける解放の感動)!!
ヘ長調交響曲作品93はベートーヴェンの最高傑作のひとつである。

 

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